その手を離さないで

翡翠鱗
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」



 風船を見た。夕日を浴びて黄金に輝き紫紺の陰影を抱いた雲を超えようと、白い風船が夕闇迫る空へと昇っていく。
「あなたにそっくり」
 少女は中空を見据えながら、傍らに漂うフワンテに声を掛ける。
 ある日を境に勝手についてくるようになったポケモン。風船のような身体の中で反響させた可愛らしい声を響かせながら、こくこく頷いた。
「どこまで飛んで行くんだろうね」
 少女の知っている風船は、息を吹き込んで跳ね飛ばしても、すぐに落ちてしまう。きっとあの白い風船にはガスが入っているんだと少女は考える。
 どこまで飛んで行くのだろう。何も考えずに天へと昇っていく風船を羨んだ。とりポケモンが飛ぶ高さまで、飛行機が飛ぶ高さまで、それとも宇宙まで行ってしまうのだろうか。あれこれ考えているうちに、風船が空に飲まれて見えなくなると、少女は不意に不安と寂しさを覚えた。

 幼い頃に風船を貰ったことがあった。それは吊るした紐を離すとどこまでも飛んでいってしまう。手元を離れ、小さくなっていく風船の記憶。少女は不思議ともどかしさを感じていた。

 風船を飛ばしたのは丘の広場からだろうか。夕日に照らされた静かな街並みの先は、雑木林が残る丘陵になっていて、階段や遊歩道を登っていくと、美しい景色が待っている。手を伸ばしても届かない風船に、誰かが泣いているのだろうか。
「ちょっと行ってみよう」
 少女は気になって、風船が飛ばされたであろう高台へと赴くことにした。
 
 陽光を失いつつある軒並みは、その輪郭を闇へと溶かし、営みの灯りが点々となって広がっていく。フワンテが一足先に訪れた夜風に振り回され、少女がその様子にくすくすと笑った。
 緩やかな登り坂を逸れると、丘陵に作られた一直線の長い階段がある。王様のいる玉座へと続く階段のようだと少女はいつも思う。階段に沿って昇っていくと、小さな広場に辿り着く。三方を山林に囲まれ、広場の先からはハイキングコースが伸びている。振り返れば宵闇に沈もうとしている街並みと、東西で対極の色彩を成す雲と空が広がっていた。
「誰もいないね」
 広場には簡素な東屋が建てられ、崖際にベンチが幾つか並べられているが、どこにも人影はなかった。頼りない外灯が照っていた。もう暗くなる。
「行こうか」
 少女の寂しげな声音に何を感じ取ったのか、フワンテが紐のような手で、少女の頭を撫でた。

 その夜、散りばめられた星々を眺めながら、少女は過去の記憶を手繰り寄せていた。
 大勢の人で賑わう繁華街。人混みの中で、彼女は両手で風船を持っていた。何かのイベントで受け取ったであろう、それを大切に、大切に握りしめていた。けれども何かの拍子で手から離れていった風船は、もう手の届かないところに昇ってしまった。
「離してしまったら、もう戻って来ないのよ」
「そうだ。だから、お父さんとお母さんの手も離しちゃダメだぞ」
 幼い少女は悲しみを堪えて何度も深く頷いた。お母さんがハンカチで涙を拭ってくれた。お父さんがぽんぽんと頭を撫でてくれた。それだけで少女は幸せで、お父さんとお母さんと手をつなぎ直し、ぎゅっと握りしめた。それはとても暖かな手だった。
 眠りから覚めるまでの夢のように曖昧な記憶。浮遊感の中で、彼女は幸せだったと今に思う過去へと沈んでいく。
 家族への想いで満たされ、優しさが胸一杯に膨らんでいった。





 明くる日の夕方は曇り空だった。少女は街角から、昨日と同じように白い風船が空へと旅立っていくのを見逃さなかった。雲間から差し込んだ陽光によって風船が輝いていた。やがて灰色の雲に紛れ、消えていった。誰かが誤って風船を飛ばしたのではなく、意味があって飛ばしていることに彼女は気付き、風船を手離して悲しんでいる幼き日の自分がそこにはいないことに安堵した。
 少女はフワンテと一緒に高台へと向かった。昨日よりも少し急いだおかげで、彼女は高台の広場で風船を持つ人影を見つけることができた。その風貌は、作業着姿の男で、工学の研究者に見えた。風船は人の背丈と同じくらいで、男が紐の先に何か白い箱を取り付けていた。
 見慣れぬ理科的な光景を眺めていると、ベンチに腰掛け作業をしていた男が少女に気付いたようで、手招きする素振りを見せた。少女は周囲を窺ったが、他に人はおらず、目を見開いて戸惑う様子を見せながら、男に近寄った。
「変なことしていると思ったでしょ?」
「あ、はい」
 気さくな男の言葉に、少女はどぎまぎしながら返答する。
 
「あの、何を、飛ばしているんですか」
「これはラジオゾンデ。上空の気象を観測するためのものだよ」
 聞き慣れない言葉であったが、天気を調べているのだと少女は解釈した。
「天気予報士さんですか」
「残念ながら」
 男は愉快そうに笑って応える。男は三十代くらいに見えた。髪の毛はボサボサ、青ひげを生やし、目にはうっすらくまが表れていていたが、その笑顔には優しさが見え隠れしていた。

「気象学者とでも言うべきかな。オゾン層の研究をしているんだ」
「オゾン層ですか?」

 オゾン層。少女は理科や社会科の授業で調べたことがあった。紫外線を守る役目を果たしてくれる薄いカーテンのようなものだ。昔は電化製品に利用されていたフロンガスによって、オゾン層が破壊され、紫外線が増えて皮膚がんや白内障の原因になると騒がれた。けれども今ではフロンガスの規制が実り、オゾン層は完全に回復されたのだ。
 自称気象学者の男が少女に、風船に取り付けられた装置を見せてくれた。

「この箱の中に測定装置や送受信機が入っていて、大気中のオゾン量を観測しているんだ」

 白い発泡スチロールの箱で、側面には『危険物ではありません』『拾得された際は、下記に御一報下さい。処分致します』と書かれ、連絡先が併記されていた。ベンチには大きなリュックサックとスーツケース、ノートパソコンが並べられている。パソコンの画面には、先程飛ばした風船の位置が分かると思われる地図が表示されていた。

「どのくらいまで飛ぶんですか」
「オゾン層を超えると、気圧の差で膨張して風船は破裂するんだ。だから高度30キロメートルに到達しないくらいかな。あとはパラシュートでゆらゆら落下するだけさ」
 具体的な数値を挙げられても、少女は実感がわかない。
「高度30キロメートルって、どのくらいの高さですか。宇宙にまで行きますか」
「宇宙空間は高度100キロメートルのカーマン・ラインを超えなきゃ辿り着かないんだ。でも、飛行機は高度10キロメートルくらいを飛ぶから、それよりも高いよ」
「飛行機よりも高いところを飛ぶなんて、すごいですね」
 少女は感嘆の声を上げると、男が「そうだね」とにこやかに応えた。

 丘陵に吹き上がる風を察したのか、男がラジオゾンデを飛ばした。上昇気流に乗って、風船は空高く舞い上がった。二人はしばらく黙って風船が辿る軌跡を眺め続け、やがて風船は雲間に霞んで消えていった。少女は素朴な疑問を口した。
 
「空が好きなんですか」
「ああ、好きだね、とても。晴れた日に空の色の移り変わりを眺めるのは至福のひとときだよ」
「そうですか、私はちょっぴり空が怖いです」
「空が落ちてくるのを恐れているのかい」
「それは杞憂です」
 少女の機知に富んだ返答に、男がけたけた笑う。
「きみはとても頭が切れるようだね」
「いえ、宝の持ち腐れです」
 少女は自嘲気味に応えると、静かに漂っていたフワンテが悲鳴にも似た声で鳴いた。

「君のフワンテかい」
「いえ。勝手に付いてくるんですよ」
「そうか、珍しい。フワンテには様々な迷信があるよね」
「知ってます。昔、絵本で読んだことがあります。悪いことをした子どもをフワンテが連れ去るお話です」
「うむ。子どもを連れ去る話は、民間伝承でもよく聞くね。君を連れ去ろうとしているのかな」
「私は子どもじゃないですよ。14歳は過ぎました」
 少女は背筋を伸ばすような仕草を見せると、男が「それは悪かった」と苦笑した。少女は話を続ける。

「人間やポケモンの魂が合わさって生まれたとかも聞いたことがあります。やっぱり科学者だから信じませんか」
「いや、魂の転生については、否定する証拠はないよ。真実であってもおかしくないさ」
 男の返答は、少女にとって意外なものだった。問い返そうとしたところで雷鳴が遠くから聞こえてきた。
 
「雨が降りそうだね。僕は帰るから、君も早く帰りなさい」
 男の言葉は、娘の帰りを心配する父親に似た優しい声音だったが、少女にはとても寂しく感じられた。少女は、ただ一つ、聞かなければ気の済まない疑問があった。けれども、もっと色々なことを男に訊いてみたい欲にも駆られていた。

「あの、もっとお話したいです」
「そうだね、明日もこの時間にいるよ。またおいで」
 笑みを絶やさない男の言葉に、少女は「はい」と元気よく応えた。

 その夜、少女は幼い頃に、お母さんに読んでもらった『ふわふわフワンテ』という絵本を思い出していた。その絵本は優しい絵柄に反して、内容が怖く、一度読んでもらったきりで、お父さんに頼んで、自分では手の届かない本棚の一番上に仕舞ってもらっていた。
 一度だけでも本の内容は記憶にこびりついていた。悪戯をして親に叱られ、家を飛び出した男の子が、仲良しのフワンテに連れられ、空を飛んでいく。しかし、次第に宇宙の闇に飲まれる怖さから、家に帰りたいと泣け叫ぶ。その鳴き声に悲しんだフワンテも泣き喚いて破裂してしまう。男の子は真っ逆さまに落ちていく中で、目が覚める。夢の中の出来事だったのだが、それ以来、男の子は悪戯をしなくなったという。
 悪さをしでかしたり、一人で外を出歩いたりすると、悪い人に連れ去られてしまう。きっとそんな意味合いを持たせた、しつけのための絵本だったと少女は今になって考える。

 夕立の雨雲が過ぎ去って、夜空には月影と星々が顔を覗かせていた。本に出てくる男の子のように、もしもフワンテに連れ去られたら、あの月や星まで辿り着けるのだろうか。それとも高度30キロメートルで破裂してしまうのだろうか。
 少女の傍らにいるフワンテは目を閉じて眠りに就いていた。頭の白い綿毛のようなものを触るとふわふわしている。幼い自分だったら、きっとフワンテを怖がって触れもしなかっただろう。私はもう子どもではない。けれども大人でもないと少女は思う。この子も絵本のフワンテのように、いつか私を何処かへ連れ去ってくれるのだろうか。
 考えるのをやめようと、目を閉じても、自らが空へと飛び立つ光景が浮かび上がる。それは、ちょっぴり怖くて、涙がひとつ溢れた。
 




 翌日の夕方も、雲の多い天気だった。
 少女とフワンテは、丘陵の広場につながる長い長い階段の途中で、大きなリュックサックを背負ってのそのそと登る男を見つけた。少女は男の背後に忍び寄って、元気よく挨拶した。
「こんにちは、今日も大きな荷物ですね」
 声を掛けると、男が驚いた顔で振り返った。
「やあ、君かい。急に声を掛けないでおくれよ」
「またお会い出来たのが嬉しくて、つい」
 苦笑いを浮かべる男に対して、少女は満面の笑みで応えた。
 
 男がベンチに座ると、少女も隣に腰を下ろした。フワンテは雑木林の一つの枝に身を置いていた。流れ行く雲によって日差しが遮られていたが、直射日光や建物からの反射光もなく、街並みを見渡しやすかった。住宅街の向こうには河川と有料道路が並行して走り、それらを跨ぐように鉄道の線路が敷かれていた。短い編成の列車が通ると、走行音が静かな丘陵へ微かに響いてきた。

 少女は男に素性を訊ねた。男の名前は曽根といった。物心ついたときから解明したいことがあり、気象学の研究をしてきたという。
「ソネさんは、ずっと昔から研究者だったんですね」
「そうだね。どうしてもやり遂げなきゃならないことがあるんだ」
 そう応えるソネさんの横顔が、少女にはとても凛々しく見えた。

 少女は、彼に色々な質問を投げかけた。空の色はどうして変化するのか。雲にはどんな種類があるのか。空気の層の違いは何か。矢継ぎ早に次々と、知らないことを問い掛ける。ソネさんは、一つひとつ丁寧に答えてくれた。光の波長が違うから空は青い。うろこ雲とひつじ雲の違いについて。成層圏は他の層より温度が高い。難しい話も多かったが、ソネさんが喋る様子が楽しそうで、少女も熱心に耳を傾けた。
 彼は少女に名前だけを訊ねた。「結ぶと書いてユイです」と応えると、「素敵な名前だ」と返してくれたことにユイは照れ笑った。

「そういえば、今日も風船……、じゃなくて、ラジオゾンデを飛ばすんですか」
「残念ながら今日は飛ばさないよ。その代わりにあるものを観察しに来たんだ」
「観察ですか」
「そろそろ来る頃じゃないかな」

 ソネさんが双眼鏡を構え、西の方角を見据えた。しばらくして連なる山々の上空に小さな点々が見えた。何かが近づいて来るようだった。ユイは目を凝らした。いくつもの丸い影が見える。風船だと思った。それが接近するにつれて見覚えのあるシルエットに変わった。野生のフワンテの大群だった。
「フワンテがいっぱい、何処から来たんですか」
「あの群れは偏西風に乗って地球を一周して来たんだよ。どこか目的地があるわけでもなく、ただ空を漂っているんだ。まるで意識の無いように」
 彼によれば、人間に連れ添う野生のフワンテは珍しく、一般的なフワンテは風の吹くまま気の向くままに、空を飛行しているという。

「すごい数ですね」
「ざっと二百匹は超えるね。一昔前と比べて個体数が爆発的に増えているんだ。あの群れは、前回の観測よりも多く飛来しているね」
「どうしてそんなに増えたんですか」
「ほら、昨日、きみも言っていたじゃないか。フワンテは人間やポケモンの魂が合わさって生まれたって」
「迷信じゃないんですか!」

 ユイは驚いて問い返す。ソネさんが飛来するフワンテの集団の数を計測器で数えながらも、答えに確信している響きで彼女に応える。

「きっと周囲の承認を得ることはできない。けれども僕は真実だと断言する。フワンテの個体数は、死亡した人間やポケモンの数に比例する。つまり、昇天できなかった魂が結合して生まれるのがフワンテなんだ」
「昇天できなかった魂って、この世に残った幽霊ですか」
「そうだね。その捉えで間違っていない」
「……幽霊はやがてフワンテになる」

 ユイは禁忌に触れるかのように、ゆっくりとその言葉を反芻する。フワンテの大群が、丘陵の上空をゆったりと通り過ぎていく。ユイといつも一緒のフワンテは、群れを気にすることなく、彼女の頭上にやって来て静かに漂っていた。
 飽きもせず空を見上げ続けるソネさんに、ユイはさらなる問いをぶつける。

「どうして、あの世へ行けない魂があるんですか」
「オゾン層だよ」

 即答だった。「なぜオゾン層が出てくるのか」と、ユイは理解ができず、首を傾げる。ソネさんが双眼鏡を下ろして彼女に顔を向けると、神妙な面持ちでおもむろに口を開いた。

「霊体は、オゾン層を通り抜けることが出来ないんだ。だから、オゾンホールが閉じた二十年前頃から、人間やポケモンの魂が昇天できなくなって、この地球上に留まっている。それらが結びついて、フワンテは生まれる」
 ソネさんが上空を過ぎていくフワンテたちに一瞥して、話を続ける。

「元々、オゾンホールの発生によってフワンテの生息数は減少した。けれどもフロンの規制が功を奏し、オゾンホールが修復されるとフワンテの生息数は一転して増加し始めた。オゾン層のオゾン量と透過する紫外線量は反比例する。しかし、フワンテの量とは比例するということだ」
「それで、フワンテの数が増えている……」
「そう。近い未来に、この世に残った人間やポケモンの魂、そしてそれらが結合して生まれたフワンテが、この地球上を覆い尽くしてしまうかもしれない。だから僕は、オゾン層に穴を開ける。そして、魂たちを、フワンテたちを高く遠くへ飛ばしてあげなきゃならない」
「高く遠くへ……」

 ユイは、「高く遠くへ」という言葉を噛みしめる。それはきっと世界の片隅でも宇宙でもない。死者のみが辿り着く場所を意味するのだろうと彼女は思い至る。そして、ユイに残された唯一の疑問は、確信に変わりつつあった。
 いつしか空をゆくフワンテの群れは東の空に消えようとしていた。ソネさんが立ち上がって、ユイに声を掛けた。

「そろそろ帰ろう。きみも帰りが遅くなると、ご両親が心配するだろう」
 彼の言葉に、ユイは苦しそうな笑顔で応える。
「両親は事故で亡くなっているんです。飛行機事故で……」
「そうか……。空が怖いのはそういうことかい」
「そうかもしれません」

 曖昧な返事に沈黙が漂う。フワンテが、ユイの頭に乗ると、垂れた紐のような手が、彼女の両肩に置かれた。両親の顔を思い浮かべながら、ユイは尋ねる。

「私のお父さんとお母さんの魂も、この世に留まっているのでしょうか」
「違いない」
「じゃあ、どこかで会えるのでしょうか」
「……幽霊を見える人ならば、会えるかもしれないね」

 ユイはその言葉に、ずっと気掛かりであった疑問の答えが解かれた。そして、ソネさんの優しさにも改めて気付かされていた。拒絶することも、根掘り葉掘り聞き出そうとすることも出来たはずなのに。彼女は大きく息を吸い、肺に、腹に空気が溜まっていくのを感じ、やがて萎んでいく風船のように息を吐き出すと、自然と言葉が溢れた。

「ソネさんは、幽霊が見えるのですか?」

 穏やかな表情を浮かべていた彼の顔に一瞬影が落ちた。手で口元を覆い、何か考える様子を見せたが、すぐにいつもの柔和な笑みを浮かべて、ユイの質問に応えた。

「そのとおりだよ。僕はね、小さな頃から、幽霊が見えるんだよ。人間やポケモンの幽霊だ。透き通った霊体が、至る所でふわふわ漂っている。今、この広場にもポケモンや老人の霊が浮かんでいるんだよ」
 少女は驚いた様子では辺りを見回すが、幽霊などどこにもいない。彼が話を続ける。
「みんな意識を失っているんだ。そして、起きることもない。その表情は苦痛や苦悶に満ちたものだ。誰も安らかに眠っていない。それらを僕は、幼い頃から、ずっと、見てきた」
 言葉を紡いで最後まで言い切ろうとするソネさんの声音に、ユイは何か尊大なものに対する怒りと悲しみの響きを感じ取っていた。
「だから僕が見る空の景色は、表情を歪ませた人々とポケモンたちで埋め尽くされているんだ。それは僕にとっても苦痛でしかなかった。死んだ霊体には触れることも話し掛けることもできない。生きている人々は、誰も僕の話を信じてはくれない。僕は、ずっと、孤独だった」

「孤独なのは、私もですよ」とユイは言いたかった。けれどもうまく言葉を発せず、胸の中でもどかしさが膨らんでいく。
「だって、今、こうして、お喋りをしているじゃないですか」とユイは声を掛けたかった。
「だから、ソネさんは孤独じゃないですよ」とユイは伝えたかった。
「私は、ソネさんの話の全てを、信じています」とユイは言葉にしたかった。
 彼が体験してきた世界を、彼の見ている景色を、ユイは共有することができない。だから、ユイは彼の傷心に寄り添うことができない。けれども、それは今、ユイ自身に起こっている現実にも言えることだった。だからお話はできる。あなたとお喋りができる。それがユイにとっての全てだった。

「でも、ソネさんは、私を見つけてくれました。手招いてくれました。話し掛けてくれました!」
膨張した想いが、言葉となって、涙となって、溢れ出す。
「――死んでしまって、幽霊になった私を」





 暗い、暗い闇。目を開いても、何も見えない。
 何かに挟まれているようで、押し潰されているようで、感覚が無くて、身体が動かない。ただ自由のきく両手をあらゆる方向に伸ばしても、触れるものは無機質な破砕物。喉が渇いていて、口に感じられるのは額から流れてきた汗と血の味ばかり。鼻を刺激するのは、嗅いだことのない化学薬品が混ざったような異臭。あとは痛み。
 静寂の中で必死になって求めた。「お母さん、お父さん」と呼び叫ぶ声が反響して鼓膜を震わせる。暗闇の中でユイは声を上げ、手を伸ばして求め続ける。
 やがて彼女の意識は萎んでいく。しかし、死にたくないと切に願う意思は次第に膨らんでいった。
「――ひとりぼっちは、嫌だ」
 声にならない叫び声をあげたとき、どこからか光が差し込んだ。
 光を求めるようにして、身動きのとれなかった身体がするりと抜け出した。
 ユイが振り返ると、血だらけで、泣き腫らした顔の少女がそこにはいた。息絶えた少女が手を伸ばした先に、彼女のお父さんとお母さんが、折り重なるようにして倒れていた。あらぬ方向に曲がった腕、引き千切られた脚、赤黒く染まった顔。
 お父さんもお母さんも、手を伸ばした先は空虚だった。それらが重なり合わさり、つなぎ止められることはなかった。
 ユイは泣き続けた。救助隊が来たときも、自分と両親の遺体が運び出されたときも泣き続けた。
火葬場で燃やされたときも、誰にも気付かれずに泣き続けた。誰にも気付いてもらえないことに泣き続けた。何も出来ないのに、涙は枯れることなく嗚咽が続いた。そこへ小さな風船の生き物がやって来て、紐のような腕の先に付いた、小さなちいさな手で、少女の溢れる涙を掬って、頭をそっと撫でてくれた。

 辛く悲しい記憶が蘇る度に、ユイは涙を流してきた。孤独であることに、涙を零してきた。その度に、フワンテが涙を拭って、頭を優しく撫でてくれた。

 今日もまた、少しだけ宙に浮かんで、闇夜に淡く浮かぶ星々を見上げていると、涙が溢れてくる。それは、悲しみや恐怖によって湧き上がるものではなかった。それは喜びや嬉しさの入り交じる、不思議な感情だった。「ぷわわ」と鳴いて、フワンテがそっと腕を伸ばした。黄色いハートの形をした可愛らしい手で、頬を伝う涙をそっと拭ってくれる。
「ありがとう。あなたが傍にいてくれなかったら、きっと私は狂っていたと思うの」
 ユイは、涙で濡れたフワンテの手を握った。小さなちいさなその手は、不思議と暖かく、握り続けていると、家族の暖かな記憶が思い浮かぶ。だからもう、寂しくはなかった。
「ソネさんが、オゾン層に穴を開けたとき、どうか私を、空の向こうに連れ去ってくれますか?」
 ユイの願いに、フワンテは綺麗な歌声のような鳴き声で応えた。





 ユイがソネさんと出会って一ヶ月が過ぎた。
 ユイはフワンテを連れて毎日のように彼に会いに行った。ラジオゾンデを何度も飛ばし、白い風船の行く末を見守った。増加するフワンテの群れを何度も観察し、その集まった人とポケモンの魂に思い馳せた。
 そして何よりも、ソネさんとのお喋りを楽しんだ。ユイは、気象学のことについてたくさん教えてもらった。雲の形を見れば、雲の種類を言い当てられるようになった。宇宙空間に辿り着くまでに空気に起こる変化にも詳しくなった。大気汚染や気候変動の問題についても、ユイは真剣に傾聴した。

「空の知識を得ても、宝の持ち腐れにならないかい」
「そうですね。でも、きっと役に立つと思います」

 そして、ソネさんは、オゾン層に穴を開けるオゾン破壊装置を完成させた。上空で塩素ラジカルを発生させて、オゾンを破壊すると言う。ユイは仕組こそ分からなかったが、きっと彼が、長い年月をかけて苦悩と戦ってきた結晶であると理解していた。
 小型の装置はラジオゾンデと同じように、白い風船に付けて上空に飛ばすという。東屋のベンチに機材を並べて装置の最終調整をするソネさんが、ユイについての懸念を口にした。

「オゾンホールを再発生させたとき、何が起こるかは分からない。もしかすると、きみもこの世から消え去ってしまうかもしれない。それでもいいかい」
「はい。最初からそのつもりでした。それに、もう覚悟はできています。空を昇るのは、ちょっと怖いですけどね。それよりも、ソネさんこそ、オゾン層を壊して犯罪者になったりしませんよね?」
「明日は明日の風が吹く。その時はフワンテのように風に乗って、どこかへ去っていくさ」

 その日は、空が世界中の何処にでもつながっていることを予感させる、素晴らしい青空が広がっていた。二人の笑い声と、一匹の鳴き声が静かに響き渡る、穏やかな時間が流れた。
ソネさんが、青く澄んだ大空に装置を結びつけた風船を解き放った。今日の風船は、目的を達成しようとひた進むように、一直線に空高く舞い上がっていった。
 やがて夕日が傾き、流れ湧き出た雲が黄色や赤色に彩られ、空が美しい茜色に染まろうとしていた頃。見渡す限りの山々や地平線の向こうから、小さなちいさな風船たちが飛来した。遠目で見てもフワンテの大群であると、この一ヶ月間で群れを観察してきたユイには分かりきったことだった。

「すごい数ですね」
「ああ、天に帰ろうと、フワンテたちが集まってきたんだ」
「じゃあ、無事にオゾン層に穴が開いたんですね」
「ああ、ユイさん。すごいんだ。人やポケモンの魂も、フワンテたちと一緒に、空にぽっかり開いた穴を目指して昇っていく。ああ、本当に空が晴れていくようだ。みんな穏やかな顔をしているよ。みんな」

 双眼鏡を構えたソネが、歓喜の声で言葉にする。
 空の一点を目指して舞い上がるその様子は、自然現象のようなものなのか、帰巣本能のようなものなのか。ユイには分からなかったが、きっとそれは死という悲しい出来事の先にある、優しさに満ちたものではないかと想像し、そうであって欲しいとも願った。

「死んだ人やポケモンたちって、どこへ行くのでしょうか」
「さあ、そればかりは生きているものには分からないさ。けれども、みんな行きたがる場所なのだろうから……、きっと素敵なところなのかもしれないね」
「……そうですね。きっと、そうだと思います」

 ユイは見晴らしの良い崖際に立って、空を見つめる。フワンテたちは天空へと昇っていった。手を大きく広げて深呼吸。あとは自分たちの番だった。ここから見る景色もこれが最後だろうと、じっくり目に焼き付ける。隣に寄り添うフワンテも、丘からの眺めを楽しんでいるようだった。

「風船みたいに何も考えずに、ただただ飛んでいけたらいいのになって、思ってしまいます」
「行くのかい?」
「はい。いつまでもこの世に残っていちゃダメだと思って。それに、お父さんとお母さんも待っていると思うので」
「怖くないかい?」
「……怖いです。でも、この子と手をつないでいると、不思議と安心するんです。だから、大丈夫です」

 フワンテが、「ぷわわん」と鳴いて、ユイの頬にすりすりと顔をこすりつけ、彼女の頭上に浮かび上がって、両手を垂らした。ユイはソネさんに向き直った。これが最期の別れの挨拶だと思うと、急に寂しさがこみ上げてきた。

「ソネさんは、また一人ぼっちになっちゃいますね……」
「そうだね。でも、きみとフワンテのように、ポケモンと仲良くなってみようと思うよ。それが僕の次の研究だ」
「ソネさんなら、たくさんのポケモンと仲良くなれると思います」

 研究熱心で、苦しんでも最後まで研究をやり遂げた壮年の気象学者。きっと彼なら、またすごいことをやってのける、そんな予感をユイはひしひしと感じ、そして期待している。

「お父さんとお母さんに会えたら、ソネさんのこと話しますからね。すごい人がいたって」
「ああ、よろしく頼むよ、ユイさん。きみのように、一緒にお喋りを楽しめる幽霊は初めてだったよ」
「私も、お喋りができて楽しかったです。ソネさん、またお会いしましょうね」

 ユイはフワンテの両手を握った。
 幽霊となったユイは自分の力で浮き上がることも出来たが、浮力を失って落下するのを怖れ、フワンテと一緒に飛んでゆくことを望んだ。フワンテの小さな身体でも、霊体となったユイを引っ張り上げることは容易だった。ゆったりと身体が空中に浮かび上がると、風が吹き上がり、上昇気流に乗ってフワンテとユイは大空に舞い上がった。
 見下ろすと、ソネさんが手を振ってくれていた。その瞳は輝いていた。「さようなら」と叫ぶ。精一杯の声で叫ぶ。もう声が届かなくなる。そう思って、もう一度叫んだ。ただ一人、言葉の届く彼に向かって。





 空を飛ぶのは不思議な感覚だった。高度11キロメートルまでの対流圏。風が強く、気温が段々と下がっていく。けれども、夕焼け空は美しかった。
 ソネさんに教えてもらった空のこと。自分は何も知らずに空を怖れていたのだと思うと恥ずかしくなる。教えてもらった知識をなぞりながら、ユイはその景色を目に焼き付ける。
 高層雲を抜けて、見下ろせば朧雲が光り輝き、飛び交う飛行機が遠くに見えた。それは高度10キロメートル。巻雲が見える。気温はマイナス50度を下回っているはずなのに、ユイの肌身には感じられなかった。そして上昇は続く。成層圏。そしてオゾン層。地球を包む膜に穴が開いている。ユイは言葉の届かない地上に向かって語り掛ける。

――ソネさん。とても残念です。飛行機の窓越しじゃない、この眼で見る空の景色は本当に美しいんです。宇宙との境目が青くて、それがだんだんと藍色に、そして黒へと変わっていきます。雲は、黄金に真紅に、光を放っているんです。言葉ではうまく伝えられないのがとてもやるせなくって……。だから、いつか必ず一緒にお喋りしましょうね。

 ユイとフワンテは、宇宙の闇に飲まれることはなく、やがて眩い光に包まれていった。不思議な感慨に浸る中で、フワンテとつないだ手を離さないように、ユイは握った手の暖かさを忘れずにいた。そして、忘れるはずもなかった。その手は、お父さんとお母さんとつないだ手の暖かさを思い起こさせるのだから。
 フワンテというポケモンが、人やポケモンの魂が集まってできるというのなら、もしかしたら、その身体の中には、大切な人々の魂があるのかもしれない。
 あの日。飛行機の座席の両隣にはお父さんとお母さんがいて、ユイは一所懸命に両親の手を握っていた。叫び喚く声に甲高い悲鳴が恐怖を煽り、為す術無く落ちていく機内を絶望が包み込んでいた。それでもユイは、身体を屈めながら、ずっと握りしめたその両手の暖かさに希望を抱いていた。お父さんのがっしりとした大きな手に包まれて。お母さんの細く繊細な手が重ねられて。ぎゅっと握りしめる。

――だからもう、その手は絶対に離さない。