飛べないペンギン

honeybeeと赤いベッドで踊る
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」
   0‐1


 私とすすきさんはレストランでの昼食を終え、いつもの場所へと戻ってきた。
 私たちはベンチに座ったまましばし、ぼうっとする。そよぐ風は冷たく、食後で軽く火照った身体を落ち着けるにはおあつらえ向きだ。私たちは何も言わないまま、風に身を任せ、束の間の休息を堪能することにする。
「ラジオでも聞くか」
 そう言ってすすきさんは何世代か前の旧型のポケギアを取り出した。
 広大な敷地をほこる自然公園の中でもとりわけ人の通らないこの場所には私たち以外の誰もいない。そんな空間にラジオの司会者の妙に高いテンションのトークが響くと、むしろ物悲しい。山の頂上から力いっぱい叫んでみたのに、一切のやまびこが返ってこないかのような、どうにも報われない類の虚しさが溢れている。
 私はそっとラジオの音声に耳を傾ける。やまびこは返せなくとも、ただ聞くだけならば誰にだってできる。
 ラジオを聞き、そして私は、唐突な思いつきでこう言った。
「すすきさん、海に行こうよ」
 私がそう言ったのは、なんてことはない。
 飛べないことなんてわかっていて、それでも私は飛ぼうとすること以外にやり方を知らない。だから飛ぶしかない。
 そう思ったからだ。


   1


 さて、次のお便りに行ってみよう。
 R.N.『飛べないペンギン』さんからのお便りだ!
『こんにちは、空を飛ぶことを夢見るポッチャマです。私は日々空を飛ぶべく様々な努力をしています。せっかく翼があるので、きっと飛べるはずだと思い続けて数年、一向に飛べるようになりません。
 何かいい方法はないか探していたのですが、最近良い情報を手に入れました。
 キャモメというポケモンがいますが、彼らは空を飛ぶとき上昇気流を利用すれば、翼を動かさずとも飛ぶことができるというのです。
 この方法を使えば私も空を飛べるようになるでしょうか。翼を動かさないままというのはハードルが高いですが、上昇気流に乗って精一杯翼を動かせばなんとか飛ぶことができるでしょうか。
 いつも番組楽しみにしてます。それでは』

   *

「旅されてるんですよね?」
「ええ、はい、まあ」
「今おいくつですか?」
「十四です」
「十四ですかあ。そのくらいの年でひとりで旅してるって凄いですよねぇ。そういうお客様、よくいらっしゃいますけど、いつも思います」
 しゃきしゃき。
 小刻みな音が顔のすぐ近くで規則的なリズムを保っている。合わせて、ぱらり、と切られた前髪が目の前を落ちていった。
「出身はどちらですか?」
「ワカバです」
 理容店は好きじゃない。店員が良かれと思ってやたらと話題を吹っかけてくるものだから、こちらとしても応対せざるを得ない。私は親しくない人物と楽しくお喋りできるような性質じゃない。それに店員からは私にとって関心のある話題が飛んでくるわけでもない。だから、会話もぶつ切りで、一言ずつが極端に短くなってしまう。この店員が早々に私から興味を失ってくれるのを期待していた。
「ワカバですかあ。あそこからコガネまで来るのもだいぶ大変ですよね。歩いて旅しているんでしょう?」
「そうですね」
 あくまで機械的に私は肯定した。旅と言って、電車での移動をメインにするような人間はそういないだろう。遍く人々の旅の主旨としては、実際に自分の足で歩いたほうが理にかなっていることが多い。ことポケモントレーナーともなれば尚更だろう。電車なんかで旅してどうすんのって話になってくる。電車にポケモンは住んでないし、バトルもできない。
 ようやく美容師もこっちの意向を察し始めていて、話しかけてくることが少なくなってくる。私は黙って鏡に映った自分の顔を眺めている。ピンで留めなければ鼻の下まで及んでいた前髪は、今目の少し上くらいに収まっている。後ろも腰近くまで伸びていたが、肩の下くらいまでに切ってもらった。面倒でしばらく断髪していなかったけれど、さすがに鬱陶しさも限度を越してきて、ようやく理容店まで重い足を運んだのが今日のことだ。
 しゃきしゃき。
 耳のすぐそばで刃物の音が聞こえると、なんとなくもの恐ろしさがあって居心地が悪い。
 店内でとめどなく流れているラジオの音声に私は耳を傾けた。ラジオのMCの声はあくまで一方的で、双方向性な会話の応酬のような息苦しさがない。
 MCは番組に寄せられたお便りについて、自身の考えをやけに高いテンションでのべつ幕なしに語っている。よくこんなに話が続くなあ。そんな感心を抱きつつ、私は散髪が早々に終わるのを待った。
 『上昇気流に乗ればポッチャマでも空を飛ぶことができるか』、ね。ラジオの番組に寄せられたお便りの要約だ。まあ、土台無理な話だろう。MCは、もしかしたらそういうことも起こりえるかもー、的なちょっと綺麗なことを言ってまとめてたけれど、上昇気流に乗って翼をどんなにはためかせようが、どんなに策を講じようが、飛べないのがポッチャマの宿命だ。飛んでしまえばそれはもうポッチャマではない別の生命体だ。そんなこと、誰の頭で考えたって明瞭なのに。ばかばかしいお便りだ。
 きっとラジオを聞く人がいなくなって、それで集まるお便りも減ってきているから、こんな変な内容のお便りでも放送するんだろうな。今はテレビやネットが圧倒的に普及していて、それに反比例するようにラジオの需要も減ってるいるんだと思う。
 昔はポケギアでラジオが聴けたから、皆よくラジオを聴いていたのだけれど、最新のポケギアにラジオ機能はついていなくて、代わりにテレビ番組が観られるし、ネットも見れるし、その他にも便利な機能がわんさか搭載されている。ラジオが流行った頃のポケギアなんて過去の産物でしかない。まあ、年季の入った私のポケギアは旧型でラジオが聴けるものなんだけれど。最新型の機種は便利なんだろうなとは思うけれど、今の旧型でも困ったことはないし、私はまだしばらくはこのままでも良い。

 散髪を終えて外に出ると都会の喧騒がさんざめいて、私の鼓膜を根底からグラリと揺らすようだった。
「おまたせ」
 私が散髪してもらっている間、我が半身に店の前で待機してもらっていたのだった。店の看板のわきにそいつはいた。秋の清楚な風に身を晒しながら、地べたに丸くなって目を閉じている。
「終わったよ」
 もう一度声をかけると、そいつ、モココはやおら身をもたげ、ようやく立ち上がった。秋空の下は心地が良く、程よく雲の流れる晴天に身を任せれば、昼寝をするにおあつらえ向きの環境であるのかもしれない。ただこんな街中であれば空気はあまり澄んだものではないから、私としてはあまり大々的にくつろごうという気は起きないけれど、それでもモココにとっては、大気の多少の汚染は微々たる問題であるようだ。モココはひとつ大きな伸びをして、それから私の横にひたとくっついた。
「それじゃ行こうか」
 私はポケットから絡まったイヤホンを取り出して、手間を掛けてそれを解いた。イヤホンは音楽プレーヤーに繋がっていた。ポケギア同様、これも旧型だ。私は選曲するのを億劫がって、再生ボタンだけ一押しして音楽プレーヤーをポケットに突っ込み直した。ワンテンポ遅れて、ひと昔前のロックミュージックが流れ始めて、大音量のギターの音色が都会の喧騒をかき消した。
 太陽はまだ真南を過ぎて間もなかった。頭が軽くなったせいで、風がいつもよりも冷たく顔のわきを通り過ぎて行った。この後の予定はこれといって決まってはいなかった。
 理容店は街の中心部からは外れていて郊外ではあるけれど、それでもさすが都会というか、人通りはそれなりのものだった。駅が近いというのが大きな要因だろうか。私はあてもないままとりあえず歩き始めた。元来人混みを厭う私だったので、無意識のうちに駅から遠ざかるように歩いた。
 今はこのコガネに滞在している。私はポケモントレーナーとして旅をしているわけだから、各地を転々と巡っているわけで、少し前まではエンジュにいた。コガネは以前に一度訪れたことがあるのだけれど、エンジュのポケモンジムでこっぴどく敗退してしまいコガネまで戻ってきたのだった。そのままエンジュに居座らなかったのは、エンジュの観光地然とした雰囲気がなんとなく合わなかったということと、長めに滞在するならコガネの方が利便性の点でも秀でていたからである。そういうわけでしばらくはコガネを拠点に修練を積んでいくことになった。
 駅の反対側に進んでいくと、街の外に出ることができる。町から離れれば離れるほど自然の占める割合が多くなっていき、反対に人工物は数を減らしていく。私は自然の景観を損ねないよう計算して舗装されている道をモココと並んで歩いた。この道をまっすぐ進んでいくと自然公園に至る。
 この辺りにはもちろんポケモントレーナーが多く集まっている。街の外の道路はトレーナーたちの恰好の修行場である。私も戦闘を求めて足繁く訪れる。コガネの滞在を始めてからは毎日のようにこの場所へ向かう。しかしコガネの北に位置するこの道から自然公園にかけては、トレーナーとはまた違った人種も多く集まっている。
 例えば、大道芸人。例えばストリートミュージシャン。
 このあたりではストリートパフォーマーがやたらと多く集まり、各々独自の一芸を披露しては売名や投げ銭獲得に励んでいた。
 私はそういう見世物にはこれといって興味がなくて、もっぱら戦闘に励むトレーナーであるのだけれど、今日はそういった荒事気分じゃなくて、いまいち持て余し気味だった。最近は勝率もあまり芳しくない。
 不調が続くとモチベーションを保持するのも一苦労で、こんなふうにやる気の出ない日というのは度々あった。
「今日は、てきとうに、散歩でもしようか」
 私たちは道路を抜けて自然公園に入った。
 自然公園はその名の通りいかにも自然の公園というか、緑がとても多い。この時期だと緑に加え、紅葉した木々が園内に点在し、敷地外においては燃えるような紅い森が公園を囲むように広がっている。
 自然公園という字面だけだと、穏やかで静謐な空間を連想しがちだけれど、静かかどうかというと、あちらこちらにパフォーマーやポケモントレーナーがいるため案外騒がしい。とはいえ街中に比べれば空気も新鮮で安らぐので、憩いの場であることに違いはなかった。ここなら私も昼寝を貪れるだろう。しないけれど。
 自然公園の敷地は広大だ。ガイドマップもなしに歩き回れば、容易く道に迷うことができる。私はあえてガイドマップを見ずに、気の向くまま散歩することにした。思考を放棄した上での放逸な気分転換が今の自分には必要であると感じていた。私は少し自由な心持ちになって、鷹揚と歩き続けた。
 だいぶ歩いた頃だった。イヤホンから流れる一曲が終わって、丁度継ぎ目の空白の時間で、私は外界からも音楽が聞こえていることに気が付いた。私好みのメロディだったので、私はイヤホンを外した。
 木陰のベンチに座って、小さな少女が自分の身体に似つかわしくない大きなアコースティックギターを弾いていた。観客は皆無だった。
 私は彼女が座っているベンチから50センチくらいの間隔をあけてしつらえられているベンチの真ん中に腰を下ろして、彼女の歌を聞いた。彼女は歌に夢中で私の存在には気が付いていないようだった。こちらに一瞥もくれることなくひたむきに演奏していた。まるでオーディエンスなど必要としていないかのようだった。
 技術的には特筆すべきことはない凡庸なものだった。それでも私を引きつける特異性が少女の歌にはあった。少女の歌は北の大地で氷漬けにされたような悲愴的な色を帯びていた。やるせない諦念のようなものが節々から滲み出ていた。そして独りよがりで他に媚びていない異質な歌声だった。それは誰かに聴いて欲しいという思いから起こるのであろうストリートミュージシャンというものの本質とは矛盾しているように感じられた。誰かが聴くことを前提としていない、あくまで個人が歌うべくして歌っている、一種の自己満足とも取れる歌だった。そのような情緒を私は直感した。この辺では弾き語り自体は珍しくないけれど、彼女は他のストリートミュージシャンたちとはどこかズレている印象を持った。そのズレを私はいたく気に入った。
 何曲か歌い終わると、少女はふうっと切なげにため息を吐いた。それからようやく観客がいることに気が付いたようで、私を見て驚いたような顔をした。
 私はぱちぱちと小さく拍手をした。
「……どうも」
 少女は小さい声で言った。ハスキーで中性的な低い声だ。
「聞いてたんだ、おまえ」
 ぶっきらぼうで荒んだ言い方だった。初対面の人間に向かっていきなり『おまえ』と呼び捨てるのもいかがなものだろう。
 歌ばかりに気を取られ、よく見ていなかったけれど、少女は人を殺せそうなくらい目つきが悪かった。それ以外の出で立ちや格好は至って普通なのだけれど、なぜか雰囲気として柄の悪さがどことなく窺えた。少なくとも善良なイメージを彼女から受けることはできない。授業をサボって学校の体育館の裏で煙草をふかしていそうな不良っぽさがある。端的に言ってしまえば、怖い。
 私は彼女の歌に足を止めてしまったことを、さっそく後悔した。あまり関わりたくなタイプだ。
「うん……」
「いつから聞いてた?」
「三曲前の途中から、かな」
「そうか」
 少女はそう言って、黙ってしまった。
 私は早く立ち去ってしまおうと思ったけれど、少女の歌の余韻も残っていて、何も言わずに行ってしまうのもなあ、という気持ちもあった。名残惜しさのようなものだった。
 私が何を言ったものか逡巡していると、唐突に少女が、ふっと笑った。鼻にかかった独特の笑い方だった。ともすれば、鼻で笑った、馬鹿にした、などと難癖をつけられそうな笑い方であったけれど、私は彼女のその笑い方に不快感は持たなかった。
 いったいなにを笑ったのだろう? わからないまま、真意のほどを求めて少女の横顔を見つめると、こちらの視線を察知した彼女は舌打ちをした。
「なに見てんだよ」
「い、いや。どうして笑ってるのかなって……」
「笑ってなんかねえよ」
 そう言って少女はそっぽを向いてしまった。彼女はそう否定したけれど、私には確かに彼女が笑っているように見えた。笑う瞬間を見られることは彼女にとって都合の悪いものだったのだろうか。彼女の粗野な態度に戦々恐々としながら、私考えた。それはどういった不都合なのだろう。
「その」
 と少女が言った。後ろになにかを言い淀んでいるようだった。
「なに?」
「……ありがとな」
「え、なにが?」
 つい今しがた怒られたばかりなのに、今度は急に身に覚えのないお礼を言われ、私は困惑した。
「聞いてくれただろ、あたしの歌」
「うん」
「だから、礼」
 少女は頬を照れくさそうに掻いた。
「ちょっと立ち止まって聞いてくれる人はそこそこいるんだけどさ。お前みたいに数曲最後まで聞いてってくれるのはそんなにいねえんだ。皆どこからともなくふらっと来て、でもすぐにまたふらってどっかにいっちまう。まあ、今日みたいに誰か来ても気付かねーこともあるけど」
 ここで私は少女が笑ったのは嬉しかったからなのだということに思い至った。その後に怒ったのはただの照れ隠しだったのだろう。彼女に対して持っていた怖いという印象が薄れてきた。
「あなたの歌、私好きだよ」
 さっきまでなにか言おうか迷っていたものを簡単な言葉にして私は口にした。それは読書感想文に『とても面白い本だった』とだけ書くのと同じくらい手を抜いた表現に思えるけれど、一方で無駄をそぎ落として集約された真実を秘めている言葉のようでもあった。
「……おう、ありがと」
 少女はまた短く礼を言った。一瞬彼女がどこか悲しそうな顔をしたように見えたのは気のせいだろうか。
「なんつーか、やっぱ誰かに聞いてもらえると違うよな。もうそういうのは諦めたつもりだったけど」
「諦めた?」
「いや、なんでもねえ」
 少女はベンチから立ち上がると、大きなアコースティックギターを降ろした。そのまま足元に置かれていたギターケースにそれを丁重にしまおうとした。
 見ると、ギターケースの中には投げ銭と思しき申し訳程度のお金が入っていた。それに倣うべく、私は財布の中から一枚千円札を取り出して、ギターケースの中に入れた。
「あ? いらねえよ、そんなん」
 少女は怒ったように言った。
「なんで?」
「お前みたいなガキが、私なんかに簡単に札とか出してんじゃねえよ。もっと別のもんに使いな」
「ガキって。あなたと私、そんなに年齢変わらないと思うんだけど」
「はあ? あたしとお前が同い年ってか。馬鹿言ってんじゃねーよ。だってお前、見た感じ14とかそこらだろ」
「そうだけど。あなたは? 同い年とは言わないまでも、せいぜい15、6歳くらいでしょ」
「あたしは19だぞ」
「えっ、嘘」
「嘘じゃねーよ」
 改めて少女の頭のてっぺんから足の先まで視線を這わせた。言われてみれば確かに私と並べばはっきりと差が出るくらいに彼女は身長があった。さっきまではやたらと大きいアコースティックギターをかかえていたから、もしかするとそのせいで相対的に小さく見えていたのかもしれない。それに目つきこそすこぶる悪くて柄も悪いけれど、それ以外の顔の造形を含めると、総じて童顔よりの顔だった。19歳と言われるとどうなんだろうか、と些細な猜疑心が生まれる。
「ま、いいけどよ。下に見られることなんて、たまにはあることだし」
 そう言いながら、ギターケースの中から千円札を取りあげると、ずいと私に付き返してきた。
「とりあえずこの金はもっと別のもんに使いな。ガキがミュージシャンかぶれに出す額じゃねーよ」
 私はすごすごと受け取って、財布の中にもとあったようにしまった。
「でも今、小銭が十円玉と一円玉しかないんだ」
「いーよ、いーよ。いらね。気持ちだけもらっとくわ」
 そうは言われても私の中にはわだかまりが残っていて釈然としなかった。損するわけじゃないのだからもらっておけばいいのに。
 私はごく自然な本能のような部分で、彼女の歌を聞いたことの対価としてこのお金を払おうとしたのだった。なんでもかんでもお金で、というのはあまり健全な思想ではないかもしれないけれど、今この場で彼女に対して取れるアクションとしてはこうするべきだと感じた上でのあくまでなんの衒いもない行動だった。
 でも、押し付けるものでもないだろうから、私は素直に引き下がった。
「あなたのCDとかあれば、それを買うんだけど」
 何気なく呟くと、少女(一応私より年上らしいけれど、他に呼び方がないから少女)の顔が目に見えて曇った。ひどく遠い目をしている。
「CD、ね……」
「あるの?」
「いや、ねーよ。うん、ない」
 苦々しくそう言って、少女はギターケースをぱたんと閉じた。
「ほら、行った行った」
 しっしっ、と少女は手で追い払うような仕草をする。
「そんな邪険にしなくても」
「今日はこれで終わりだ。もう用はねーだろ」
「今日は、ってことはまた明日もやるの?」
 と私は尋ねた。
「さあな、気が向いたらやるかもな」
 よっこいさ、と掛け声とともに少女はギターケースを背負った。それはやっぱり不釣り合いなくらい大きかった。
「まあ、お前が帰らなくてもあたしは帰るよ。じゃあな」
 片手を上げ、こちらに背を向けて彼女は歩き出した。私はその後ろ姿を見るともなしに眺めていた。ふとギターケースの端の方にローマ字で『SUSUKI』と書かれているのが見えた。すすき。彼女の名前だろうか。私は彼女のことをひとまず『すすきさん』と呼ぶことにした。
 これが私、九井枯夏と、すすきさんこと杉崎栖々希のファーストコンタクトだった。
「さて、私たちも行こうか、モココ」
 言いながら足元に目をやったら、モココは身体を丸めて気持ちよさそうに眠っていた。私はひとつため息をついた。それから大きく息を吸った。空気が美味しい。私は彼女を起こそうかどうか迷った結果、日が沈むまでベンチに座って音楽を聴き続けていた。イヤホンから流れる曲たちが急につまらないものになったように聞こえた。明日また、すすきさんの歌を聞けたらいいな。
 モココが目を覚ましたのは午後六時を回った後だった。

   *

 朝目が覚めて、眠気の覚めやらない頭で私はまず、『強くならなくちゃ』と考えた。その思いは執念であり、呪いのようでもあった。それは常日頃から私の中に大きく鎮座していて、私を躍動させる重大な燃料だった。強くならなくちゃ。
 たとえ気力が尽きて、からくり人形のように意味もなく公園を徘徊するような気分の日でも、私の頭の隅でそれは片鱗を覗かせていて、私の視界にちらついてやまない。ほとんどの場合は、こんなふうに一日の始まりをこの情動に弾き起こされて、燃料が投下されて、私は稼働を始める。目の前には宿舎の薄汚れた低い天井があった。主に旅のトレーナーが利用する、格安の宿泊施設だった。私は身体を起こして自らを奮い立たせるべく、頬をぺちりぺちりと叩く。強くならなくちゃ。
 我が友人は私にしがみつくようにして、添い寝していた。可憐で無防備な愛すべき寝顔だ。私はその背中を雑にゆすった。モココは嫌々ながらといったていで起き上がり、気怠そうに伸びをした。そして私の顔を見ると何かを悟ったかのように、それまで緩み切っていたモココの顔がしゅっと精悍なものになった。
「おはよう、モココ」
 モココは短く一鳴きして、返事をした。
「強くならなくちゃ」
 呟く私の顔をモココはじいっと見ている。
 モココは布団から立ち退くと部屋のドアの前に立ち、促すように私を待った。
 私も立ち上がって、顔を洗ったり着替えたり、支度を整える。
「私たちは強くならなくちゃ」
 私たちは二つでひとり。欠陥品の、ふたつ。我が愛しき半身。個々は弱くても、『ひとり』ならきっと私たちは強くなれる。いや、強くなるのだ。弱い私たちは強くならなくてはいけない。
 必要なものをリュックサックに詰める。昨日着た衣服を持って出なければいけない。コインランドリーで全部洗濯乾燥しなければ。溜めると後々面倒なことになる。あまり旅の荷物を増やしたくはないから衣類なんかは最低限しか持たない。だから定期的にしっかり洗わなければ着るものがなくなってしまう。
 まだ数日分の宿泊料は払ってあるから、使わないものは部屋に置いたままで、必要なものだけ詰め込んだリュックサックを背負って私はモココとともに部屋を出る。まずは腹ごしらえをしなければいけない。
『強くなんかなれるわけない』
 と誰かが言った。
『今だってあなたは先に進めないまま、この場所に留まり続けている。きっといつまでも強くなんてなれない』
 そんな声を聞いた気がした。

 コンビニでサラダとパンを買って食べた後、コインランドリーで洗濯も済ませて、私は今日も今日とて自然公園へ続く道路を歩く。でもそれは散歩のために訪れるのではなかった。今日の私は十二分に燃料が入魂されているのだから。道路ではあちこちで戦闘がおこなわれていて、私たちもその渦中へと身を投じる。弱いままではいられない。強くならなくてはならない。果てなき荒野にでもしっかりと根をおろして屹立するために、私は、私たちは強くならなくちゃ。
 私たちは、私とモココしかいない。私はモココ以外にパートナーと呼べるポケモンを連れてはいない。並みいるトレーナーたちとの戦闘を私はモココ一匹で相手するのだ。
 それは途方もなく無謀なことだろう。それでも私はこういうやり方しかわからない。自分が納得できる生き方をこれ以外に知らないのだ。
 私たちは一戦を終えるごとに長い休憩を取る。立て続けに戦ってもモココへの負担が増すだけなのは火を見るよりも明らかだ。
 木陰に座って、目を閉じ、周囲の音に耳を傾けた。コミカルな音楽と人々の小規模な歓声、それから拍手の音が聞こえる。きっとまたどこかで大道芸を披露しているのだろう。でも私が求めていたのはそういう音ではない。
 私は大道芸に関わる音を努めて耳に入れないように意識して、木々のさざめきに集中する。休憩にはこんな優しくて誰のためでもない音が一番適切な気がする。なにより安心できる音だ。
 再起の時は我が半身に一任している。しばらく自然の音に身を委ねていると、モココが服の裾をぐいっと引っ張るのだ。そうすると私は立ち上がって、また次の相手を求めに行く。
 それを私たちは繰り返す。
 何戦かこなしてそろそろ引き上げる潮時かな、と私は判断する。今日の勝率は中々良かった。ここ最近の中で一番いい。
「お疲れ様」
 我が半身に労いの言葉をかけて頭を撫でると、身をすり寄せてきた。そうして少しのあいだ私たちは戯れ合った。
 それから私は、
「そうだ」
 思い立った。
 今日一日すっかり頭の中から抜け落ちていたものが、渡り鳥のように舞い戻ってきたのだった。
「すすきさんは今日も来ているかな」
 昨日聞いた彼女の歌が、脳内でリフレインを始めた。あの歌をまた聞きたいな。
「ちょっと寄り道しようか」
 モココは小首を傾げたが、私が公園に向かって歩き出すと、すぐそばを随伴してきた。


   2


 この自然公園でストリートミュージシャンみたいなことをするようになって、そろそろ一年くらい経とうとしている事実に、我ながら驚愕せざるを得ない。絶対にすぐにやめてしまうんだろうな、という強い確信が当時のあたしにはあって、それは揺るがざる真実のように思えていたのに、もう一年。一年経ってもあたしはこうやってどうしようもなくギターを弾いて、歌を歌っている。なんて愚かなんだろう。もっと別の、真っ当な生き方ってのがあるはずで、自分の幸せとか将来性とか、そういう小難しいことを考慮すれば、今みたいなこんな生き方は到底できようものではないというのに。
 でもあたしは馬鹿だから、小難しいことには全部逃げ腰の態勢で生きている。本当、馬鹿だなあ。
 今日はバイトが無くて、一日中フリーだからまたこうやって公園に来て、ギターを弾き歌を歌う。あたしが住んでいる郊外のボロアパートでは、騒音だなんだと近隣住民との間に軋轢が生まれてしまうけれど、公園ならいくらギターを鳴らしたり歌を歌ったりしても誰も咎めはしない。あたしがわざわざ公園で歌う理由なんてものはその程度のもので、誰かに聞いてほしくてやっているわけではないから、もしかしたらあたしはストリートミュージシャンですらないのかもしれない。
 ストリートミュージシャンでないのなら、あたしっていったいなんなんだろうな? なんのために歌っているんだろう? 世のため人のため? そんなわけあるかよ。
 じゃあ自分のためだ。私は自分のために歌っている。あたしが何であるかはわからなくても、とりあえず歌ってさえいれば、あたしはあたしであるような、そんな気がする。
 昼になって、歌いつかれたあたしは昼飯を食べつつ喉を休める。そんで暇だから適当にラジオでも聞く。時代の最先端の真逆をいく何世代か前のポケギアで、あたしはラジオを聞く。司会者のトークとかお便りとかを秋の涼風と一緒に聞き流しながら、あたしはあくびをする。
 休憩もほどほどに、ギターを抱えなおし、再び歌い始める。
 時々足を止めて聞いてくれる人がいる。そういう時、あたしは嬉しいような煩わしいような複雑な気持ちが渦巻いて、居たたまれなくなってしまう。聞いてくれる人の中には、たまぁにギターケースの中に金を投げ入れてくる人もいる。あたしの歌に金を払うような価値があるとは思えなくて、それなのにどうしてこの人はこんなことをするんだろうと考えてしまう。むしろ惨めな気分に沈んでいってしまう。でも金に罪はないからありがたく頂戴しておく。とはいえそれは大した額にはならない。一食の費用にすらならないことがほとんどだ。
 たまに聴衆がいることに気が付かないことがある。そういう時あたしは身体の底から歌うことに没頭していて、周りがてんで見えなくなってしまっている。歌い終わってそこでようやく人がいることに気が付く。その我を忘れている瞬間がたまらなく好きで、でもその瞬間がいつも訪れるとも限らない。今日はそれは起こらなくて、あたしはたまに足を止める聴衆の存在に悶々としながら歌う。
 しばらくすると、隣のベンチに誰かが腰を下ろした。
 横目で一瞥すると、それは昨日あたしの歌を聞いて千円札を渡そうとしてきたガキだった。
 ガキはあたしと視線が合ったことに驚いたようだった。
 あたしは演奏を中断した。
「お前、また来たのか」
「うん。今日は私に気が付いたんだ。昨日は全然気が付かなかったのに」
「今日はそんなに調子が良くねーんだよ」
「調子が良いと人が来たことに気が付かないの?」
「まあ、そんな感じ」
「ふーん、変なの」
 ガキは不思議そうに首を傾げた。
「でも良かった」
「なにがだよ?」
「今日もすすきさんの歌が聞けるから」
 ガキは嬉しそうに言った。
 あたしはまた煩悶とする。どうしてあたしなんかの歌を。わからなかった。
「ていうか、お前。すすきさんって」
「ギターケースに『SUSUKI』って書いてあったでしょ。だからそれが名前かなあって」
「ふーん、よくもまあ、そんなところまで見てんのな」
 今は開かれていて見えないけれど、ケースを閉じれば確かに薄汚れた『SUSUKI』の文字列がある。
 もう何年も前に書いた文字だ。まだまだ青かった、先のことなんざこれっぽちも見えていなかったあの頃に書いた、文字。
「でも残念だったな。あれはあたしの名前じゃねえよ」
「えっ、そうなの?」
「そうだよ」
「じゃあ、なんなの、SUSUKIって」
「SUSUKIはメーカー名だよ。このギターケースを作ってるメーカーがSUSUKIっつーんだ」
「へぇ」
「嘘だけどな」
「なにそれ!」
 かっかっか、と私は笑い声をあげた。こんな見え透いた嘘に簡単に騙されるガキがおかしくてたまらなかった。メーカー名を手書きなんかするわけないというのに。まだまだ、ガキだなあ。青くて夢見がちなガキの匂いだ。
「お前がしたり顔しててイラついたからかな」
「えっ。私そんな顔してた?」
「してたしてた」
 嫌な臭いだなあ。瑞々しい果実の酸っぱい匂いだ。熟す前のまだちょっと食べごろには足りない若い果実の匂い。たぶん青春だとか、若気の至りだとか、そんなふうに形容される果実だ。あたしもきっとそんな匂いを振りまいていた時代があったんだけれど、そしてそれはほんの数年前までしっかり存在していたはずなのだけれど、今や食べごろという過程をすっ飛ばして腐ってしまったからなあ。
 腐ってしまったミュージシャンかぶれに、意義も価値も、ないのだと、思うのだけれどなあ。
 ミュージシャンなんて、この世界でもっとも夢見がちな将来の形のひとつなんだから、数年前はそれはそれは強烈な果実の匂いを漂わせていて、それが今となっては腐臭のようなものを振りまいているような気さえするのだから。自分の匂いなんて、自分ではわからないけれど。
「結局のところ、SUSUKIっていうのはなんなの? やっぱりお姉さんの名前なの」
「そうだよ」
 SUSUKI。すすき。杉崎栖々希。それはまさしく私の名前であった。
「なんだ、結局私があってたんじゃん。変にもったいぶって」
 ガキは不服そうに口をすぼめた。
「ちなみに私の名前は枯夏っていうよ」
 ガキは唐突に名乗った。
 さして興味もなかった私は話半分で相槌を打つ。
「んなこと聞いてねえよ」
 一応これでも相槌のつもりだ。口が悪いのはあまりいい癖ではないけれど、生まれ持ってしまったのか、成長過程に問題があったのか、気が付いた時にはすでに定着していた癖だ。あまり周囲には馴染まない厄介な特性ではあるけれど、そもそも私の生き方自体、社会に馴染んでないから口癖ひとつをことさらに取り上げてどうこう言ってもどうしようもない。
「でも、私だけすすきさんの名前を知っているのは、なんだかアンフェアでしょ」
「そんなとこに公平性を求めてもしょうがねえだろ」
 ガキのすぐそばでモココが上手く立たせられないぬいぐるみのようにぐでっと寝そべっている。昨日もいたからガキのポケモンなのだろう。毛並みが土埃なんかで薄汚れていて、戦いの痕が見て取れた。じゃあこのガキはポケモントレーナーなのかと推し量る。
「ねえ、今日はもう歌わないの? 歌ってよ」
 ガキが図々しくも催促するように言った。
「お前のために歌う歌なんてねえよ」
「別に私のために歌って欲しいわけじゃないけど」
「嘘つけ。そういう言い方だったろ、今のは」
「すすきさんがなんのために歌ってても関係ないの。私はそれを勝手に聞くだけだから」
「じゃああたしが勝手に歌いだすのを待つんだな」
 お前にせがまれて答えてやる義理は、ねーよ。
 なんのために歌ってもいいなら、あたしはきっと自分のために歌うんだろう。ただ純粋な欲求があってそれを満たすために歌うのだ。
 だからそうやって横でやけに待ち望まれていると、ものすごくやりにくい。
「ダメだわ」
「えっ」
「お前一回どっか行ってくれ」
 そう言うと、ガキはひどく傷ついた顔をした。口が悪いのも困りものだ。
 とはいえ、そこにいられると私は歌えない。
「誰もいなくなったら、またやるからよ。ちょっとそこらへん散歩でもして適当に時間潰して来いよ。そこにいられると、なんかやりづらい」
「見られてるとやりづらいって、おかしなことを言うね。だってストリートミュージシャンでしょ?」
「かぶれだよ。ミュージシャンかぶれ。あたしはそんな崇高なもんじゃねー。言ったろ、お前のためなんかに歌うもんはねーって。とにかくやりづらいもんはやりづらいんだよ」
 私が言うと、ガキはしぶしぶといったふうに立ち上がって、モココを叩き起こした。モココもまたしぶしぶと起き上がって眠そうに伸びをした。
「じゃあ、また後でくるから」
「おう、そうしろ」
 あたしは雑にあしらって、奴らを見送った。
 そしてあたしの周りには誰もいなくなる。もともとこの場所は公園内では人通りが少ない方で、あたしはあえてそういう場所を選んでテリトリーみたいにしている。
 あたしはギターを鳴らし始める。誰もいないからワンマンライブだな。なんつって。
 ライブ、かあ。
 懐かしいなあ、と遠い空を仰いで、昔を想起した。当然空を見たって雲と一緒に過去が流れてきたりはしないけれど、どういうわけか人は、過去を思い出そうとすると空を見上げる。確かに存在はするのに手の届かないところにあるという点において、空と過去は似ているのかもしれない。


   3


 コガネに滞在するようになってから、時間の流れの速さが露骨に身に染みてくるようで、私は憂鬱な気持ちになっていた。程よく冷たい秋の空気はこういう暗い感情を助長してしまう。その憂鬱は主に私の弱さに関係するものだ。強くなることにめっきり自信がなくなってきて、私を焚きつけるための燃料が枯渇しているようだった。いつもそうだ。燃料がなければ私は動き出すことすらできない。
 私はしばしばすすきさんの歌を聞きに行った。他にすることが思いつかないというのもあるし、単純に聞きたいという欲求が強くなっている。
 すすきさんはいつも同じ人気のない場所で歌っているからいちいち探す必要はなかった。とはいえ行けば必ず会えるというわけではなくて、いない日の方が多かった。生活費はバイトをして稼いでいるらしく、『毎日やってられるほど暇も余裕もねーんだよ』とすすきさんは言っていた。
 その日も私はどうにも気力が湧いてこないで、ひとまず外には出て足は道路の方へ向かったものの、ポケモンバトルをすることもなく、浮浪者のように公園をほっつき歩いていた。結局いつもすすきさんが演奏している場所まで辿り着いた。
 今日は運よくすすきさんがいて、私は定位置となりつつある隣のベンチに腰を下ろした。足元ではモココがすぐに丸くなってしまう。
 すすきさんは曲の合間なのか、まだ来たばかりで始めていなかったのか、演奏しておらず、私のことにはすぐに気が付いてくれた。
「おはよう」
 と私は言った。
「おう」
 すすきさんのあいさつはいつもぶっきらぼうだ。
「よく来るな、お前。他にすることとかねーのか?」
「あるよ、一応」
 しなければならないことは、たくさんある。強くならなければいけないのだから、本来ならば、こんなところでサボっている暇などないはずなのだ。
「あるけど、どうしてもやろうって気が起こらなくて」
「ふーん」
 すすきさんは興味があるのかないのかわからないように相槌を打った。
 やがてすすきさんは歌い出した。
 会ったばかりの頃は、見られている歌いにくいと言っていたすすきさんだけれど、今は慣れてきたのか、私が見ている時でも何事もないように歌ってくれる。
 私は黙ってベンチに座ったまま、歌を聞く。どれだけ聞いてもすすきさんの歌はまったく色褪せなくて、氷のように冷たく鋭い透明感があって、同時にどこにも行けないようなやるせなさを感じた。
 はらりと一枚、枯葉がすぐそばに舞い落ちた。もう落葉の季節だ。これからどんどん寒くなっていくのだろう。枯葉の舞い散る様は、春の終わりに花が散るものと相似した風情があるのかもしれないけれど、そこに春のような優雅さや可憐さはない。寂寥感ばかりが募るこの紅葉の季節が私はそんなに好きではない。こうやって季節の巡りを体感していると、どうにも私がその時間の循環に遅れていっているようで些末な焦燥を覚える。
 すすきさんは何曲も続けて歌う。そんなに歌っていて疲れないのか疑問に思うけれど、歌い方になにかコツがあるのかもしれない。そういえば私はまともに歌を歌ったことがないなあ。学生時代、授業で合唱なんかをやらされたことはあるけれど、それくらいだ。
 それにしても学生時代、か。いい思い出がないからあまり思い出したくない事柄だ。私は頭を横切ろうとしてくる過去のあれこれを強引に押しとどめて、すすきさんの歌に集中した。
 すすきさんは長い時間を歌うけれど、すべて自作した曲を歌う。自作曲は一時間くらいで一巡するのでその都度軽く休憩を挟んでまた歌いだす。
 昼時に差しかかってすすきさんは一度ギターを下ろした。
「そろそろ腹が減ったな。昼飯でも食うか」
 と彼女は言った。
 ポケギアの時計を確認するとすでに正午をすぎていたので、すすきさんの主張はもっともだった。
「そういや今日は昼飯買ってねえな」
 独り言ちたすすきさんを尻目に、そういえば昼食というものを長らく取ってないような気がするなあ、と私は考えていた。以前すすきさんにも『昼飯食わないのか』と指摘されたことがある。あまりお昼にお腹が空かないし、金銭的にも切り詰める習慣があるから昼食は取らないことが多かった。貧乏性なのは昔からの癖だ。喉が渇いたら、自販機で一番安いペットボトルのミネラルウォーターを買うような性格だった。
「お前、昼飯は持ってきてたりするか?」
 すすきさんが尋ねる。
「ううん」
 私は首を横に振った。
 すすきさんは「よし」と言って勢いよく立ち上がった。それから身体を屈伸させて軽くストレッチした。
「どっか食いに行くか」
「じゃあ私はその間公園をぶらぶらしてるね」
 一日中すすきさんの歌を聞いていることは当たり前になりつつあった。すすきさんが食事を終えて活動を再開させてからも、私がここに居座るという旨の発言を躊躇いもなく堂々と口に出してしまう。言ってから、なんだか図々しい発言だっただろうかと少し反省した。
「なに言ってんだ、お前も来るんだよ」
「え?」
「飯、行くぞ。お前いつも昼飯食ってねえだろ」
 すすきさんは例のごとくその身に大きいギターケースを背負うとダメージジーンズのポケットに手を突っ込んで、睨むようにこちらを振り返っている。それがすすきさんにとって標準的な目つきであることはわかっているけれど。
「え、いいよ私は。お腹もそんなに空いてないし」
「いいから来いよ。奢ってやるよ。あれだ。たまには食わねえとでっかくなれねえぞ」
 そうは言うけれど、すすきさんの方こそ年の割には小柄なのだから、人のことを言えたものではないだろうに。
「それに、お前最近あんまり顔色よくないように見えるぞ。ちゃんと食うもん食ったほうがいいんじゃねえの」
「そうかな」
 私に元気がないのは肉体的な問題ではなくて、主に精神的な問題に起因するものなのだと思う。ままならないものだなあ、と悲観的な日々を送っているせいで、私の内に溜められていた黒い感情が表面に漏れだしているのだろう。
 バトルの勝率も芳しくなく、自分に自信がなくなっていくだけの日々だ。
 いや、自信なんてものは始めからどこにもなかった。強くなれるわけがないと、黒い感情の奥で苔の生した岩のように固くふさぎ込んでしまっている自分自身がいるのだ。そいつの嘆きが毒のように私を蝕んでいるのだ。
「でもやっぱりいいよ。奢ってもらうのもなんか悪いし」
 私は言った。
「大人が奢ってくれるって言ってるんなら、役得だと思ってたかっときゃいいんだよ。大人ってのはおしなべて子供に利用されるために存在するようなもんなんだよ」
 めちゃくちゃな暴論だ。すすきさんは冗談めかした顔をしているから本気で言っているわけではないのだとは思うけれど、それにしたってあんまりな言い草だ。
「すすきさんって大人なの?」
 私が尋ねるとすすきさんは苦々しく舌打ちをした。
「いいからいくぞ。横で青い顔されてると良い気はしねえんだ」
 すすきさんは私の問いには答えないでさっさと歩きだしてしまった。
 すすきさんは目つきも悪くて口も悪いけれど、とてもやさしい人なのだ。この数週間すすきさんと付き合ってきて、彼女の内面と外面の差異についてある程度把握している。簡単なところでのすすきさんの人となりというものは分かっているつもりだった。
 そういえば、私とすすきさんの関係っていったいどのように形容されるものなのだろう。私は彼女にそれなりの親しみを持っている。それは私が今までの人生でモココ以外の者には一度も抱いたことのない感情だ。私は誰かと親しく接し合うことをしたことがないのだった。そんな私が初めて彼女に親しみを覚えたのはなぜだろう。すすきさんの歌に対しての興味に付随して現れた感情だろうか。
 それにすすきさんは私のことをどう思っているのだろう。最初はそんなに見られると演奏しづらいと言ってあまりいい顔をされなかったけれど、今となってはそんなことはない。
 私たちはたぶん仲良くなった。でもそれはいったいなんでだろう。
「おら、早くしろ」
 すすきさんに急かされて、私は思考を中断した。
「とりあえず行こうか、モココ」
 モココを起こして、私はギターケースに隠れる背中を追いかけた。

 すすきさんが向かったのは自然公園の一画に建てられたレストランのようなお店だった。公園入口付近に建っているので、お店の存在は知っていたけれど入ったことはなかった。
 人工物の少ない自然公園において、その大きな建物は若干浮いてはいたけれど、窓に植物が巻きついていて、俗に言うグリーンカーテンが施されており、周囲に馴染むような工夫はなされていた。建物自体の色彩も薄い白色で整えられ清潔感があり、環境を毒している印象はない。
 ファミレスのような無難なラインナップのメニューから、私はミニサイズのドリアを、すすきさんはカルボナーラを注文した。モココに何か食べたいか尋ねたところ、彼女は黙って首を振った。今は私の隣の席に陣取って、人間が座るような格好でうたた寝している。
「そんなちっこいドリアで足りんのか?」
「うん。そこまでおなか減ってないし」
 具がエビとチーズくらいしか入っていないようなドリアを胡乱そうに一瞥したすすきさんは首を傾げる。
「お前ぐらいの年の子供って、食べ盛りとかじゃねーの? 今時の子供は小食系なのか?」
「いや、それは人に寄りけりだと思うけど。ていうかすすきさんのカルボナーラもぱっと見そんなに多くないじゃん」
「あたしは食べ盛りとかとっくに終わってるからな」
 すすきさんはフォークでスパゲッティを口に運ぶ。不器用なのか、食べ方があまり上品でない。普通スパゲッティはフォークを回して巻いて食べるものだと思うのだけれど、すすきさんはフォークの先に麺を引っ掛けてそのまま直接口まで運んでいる。
「なに見てんだよ」
「食べ方が汚いなって思ったの」
「そうか?」
「フォークを回して食べないの?」
「それだと上手く食えないんだよ」
 すすきさんは試しにフォークを回し始める。たどたどしく回されたフォークが持ち上がると、そこにはとても一口には入らないような大きさのスパゲッティが巻かれていた。
「ほらな」
 すすきさんはフォークを逆回転させて麺をすべて解くと、また元のやり方で食べ始めた。
 私もドリアに息を吹きかけて冷ましつつ食べる。
「スパゲッティは食べにくいから嫌だな」
 とすすきさんはぼやいた。
 それなら別のものを頼めばよかったのに。
「そういえばさ、ずっと聞こうと思ってたんだけどよ」
 とすすきさんが言った。
「なに?」」
「その、お前ってなんでいつもあたしが歌ってるのを聞きに来るんだ?」
「なんでって、好きだからだけど」
 それ以外に聞きに行く理由なんてない。
「いや、まあそれは、わかってるちゃあ分かってるんだけどよ」
「じゃあ、なんで聞いたの」
 すすきさんはちょっと照れくさそうにはにかんでいる。
 それからすぐに真面目くさった顔になおったので、私もつられて居住まいを直した。
「そのどうしてなんだ?」
「どうしてすすきさんの歌が好きかってこと?」
「まあそんな感じ」
 そんなことを言われても、返答に困ってしまう。
「好きって理論立てて説明できるものなのかな」
「そうだよな、難しいよな。悪いな、変なこと言っちまって」
 私たちの間に、気まずい沈黙が漂った。
 他にすることのない私は、スプーンでドリアをすくう。
 すすきさんは食べる手を止めていて、物思いに耽っているようだった。いったい何を考えているのだろう。
「お前、初めて会った日、あたしに『CDはないのか』って質問したろ」
「そうだっけ」
 すすきさんのCDがあったら、音楽プレーヤーに音源を入れていつでも聞けるようになるから、欲しいとは思う。でも、すすきさんの歌は実際に彼女が演奏しているのを聞いているほうが、より素敵なんじゃないだろうか。そう思う。
 私はすすきさんと出会った当時の記憶を探り当てる。そういえばそんなやりとりもあっただろうか。
「そん時はないって答えたけどよ、実はあるんだ」
「えっ」
「まあ、あたしは持ってないんだけどな」
「じゃあどこにあるの?」
「CDショップにいけば、運が良ければ置いてあるかもな」
「CDショップって……」
 それはつまり一般に流通しているということだ。すすきさんがどこかのレコード会社とプロのミュージシャンとして契約したということになるのではないだろうか。私は音楽業界の仕組みについては詳しく知らないので、正確なところはわからないけれど。
「昔……つってもほんの二年くらいまでのことなんだが、あたしバンドを組んでたんだよ」
「バンド?」
「そ。あたし含めて四人でな」
 すすきさんは懐かしむように、どこか遠くを見た。ここではないどこかだ。
「バンドつっても同好の士がその場のノリみたいなので集まってできたようなもんだけどな。たまーに小さいライブハウスで他の同じ無名のバンドに混ざってライブとかやってるような」
「ふうん」
 ライブハウスで演奏してるすすきさんも観てみたいなあ。でもライブハウスは人が密集して暑苦しく盛り上がっているようなイメージがあるから、私には会わないかもしれない。すすきさんはライブハウスでどんな曲を演奏したのだろう。今は弾き語りしかしていないから、しっとりしていて穏やかな演奏をしているけれど、昔は観客を沸かせるような激しいロックナンバーも演奏したのだろうか。
 それはそれで聞いてみたい。
「それでそん時もいつもみたいにライブハウスでライブしてたんだけどさ、たまたま音楽業界の関係者があたしたちの演奏聞いてたみたいで、スカウトされたんだよな」
「へえ! すごいじゃん」
「つっても、名前も聞いたことないような超マイナーなインディーズ事務所だったんだけどな。んで、なんかちっこいアルバム作って出したんだ」
「それで?」
「それだけだよ」
 すすきさんは吐き捨てるように言った。
「そんなインディーズ事務所から出た無名バンドのCDなんてそう都合よく売れるわけないからな。声かけられた時は、ここからあたしらも有名になって、ってそんなことも考えたけどさ。ま、無理だよな」
 いやー、若かったなー、あたしも。
 そう言って、たははと笑う。虚ろに、悲しそうに、笑う。
「でも当時はやっぱり悔しいっつーか、思い知ったつーか。ああ、あたしたちの曲ってこんな価値しかないんだなあって、けっこう本気で絶望したんだよ。バンドの他の奴らも、まあこんなもんだよねー、とか言ってへらへら笑ってんのが信じらんなくてよ。あたしひとりだけなんか馬鹿みたいじゃねえかって。その後バンドもすぐ解散しちまったし」
 それはよくある失敗談のひとつなのだろうと思う。夢破れてしまった者の燃え尽きて灰になって掃き捨てられた残骸。でも本人はその残骸をいつまでもどこまでも足枷のようにして引きずっていく。まとわりついて離れない、鬱陶しいようで愛しくもあるような、そんな残骸だ。
「そっからかな。あたしの曲なんかが誰かに認めてもらえるわけがねえ、好いてもらえるわけがねえって思いが常に付いて回るんだ。だからお前みたいに面と向かってあたしの歌が好きとか言われちまうと、こう、言葉にできねえような変なもやっとした感覚するんだ」
 だからすすきさんは私に『なぜ彼女の歌が好きなのか』を問うてきたわけだ。すすきさんは自分の演奏に送られる賞賛を、過去の出来事のせいで受け入れることができないのだ。私が彼女の歌を気に入り、足繁く演奏を聞きに通っていることが、彼女にとっては信じがたいことなのだろう。
 でもそんなことを言われたって好きなものは好きなのだ。彼女が受け入れてくれなくてもこの気持ちは変容することはない。
 すすきさんの歌を聞いているとなぜだか気持ちが軽くなっていくような、そんな気がする。底知れない安堵を感じることができる。
 彼女の歌の中には諦念がある。それは彼女の歌の至る所から漏れ出していて、きっと『認めてもらえるわけがない』『好いてもらえるわけがない』という彼女の思いが、そのまま歌となっているのだと思う。でもどういうわけか、その諦念が私は嫌いじゃなかった。聞いていると心が軽くなっていくのだ。
「なんかさ」
 すすきさんが再び口を開いた。
「うん?」
「最初あった時は、なんかお前のことガキだなあって思ったんだよな」
「すごい失礼だ」
 すすきさんから見ればたしかに私はガキなのだろうけれども。
「ガキは言い方悪いな。なんつーか、青春って感じ。いかにもさっきまでバトルしてたポケモントレーナーです、って感じで、夢見がちで青春してるガキのひとりなんだなあ、って」
「青春?」
 そんな言葉が私に当てはまるとは到底思えなかった。青春だなんて意識したこともない。
「でもなんか違うんだよな。お前、あたしと同じ匂いが、うっすらとするんだよ。諦めの匂いが」
 諦め。諦念。
『強くなんかなれるわけがない』
 声が、また聞こえた。
 その声は私の声だ。
「って、すまんすまん。なんか話の流れで変なことを言っちまった」
 っていうかスパゲッティが冷めちまうな。
 そう言ってすすきさんは長らく止まっていた食事の手を動かし始めた。
「つーか、お前ってトレーナーだよな? たまにそのモココが戦った後みたいな様相のまま私の演奏聞きに来るし」
「そうだよ」
「その割にはおまえモンスターボール持ってねえよな。あれって基本的に腰につけるもんじゃねえの? カバンに入れてたら不便じゃねえか?」
「ううん、私はボール持ってないよ。ポケモンはこのモココだけ」
 そう、モココだけ。私たちは私たちだけで強くならなければならないのだ。


   4


 モココと出会ったのは私がまだ学生のころだ。その時はまだモココはメリープだった。
 学生時代。私、九井枯夏はいじめられっ子だった。
 どうしていじめられるようになったのか、その根源がなんであったかはもう覚えてはいないけれど、というよりも何が原因なのかなんて当時の私にだってわかってはいなかったけれど、とにかく私はいじめられていた。
 一度いじめのターゲットになってしまえば、あとは他の人と少しでも違うところに目を付けられて、異端者扱いされるのだ。例えばおしゃべりがあまり得意ではないこと。例えば母親しかおらず、父親がいないということ。そんなくだらないあれこれで、私は生きづらい学生時代を送ることになってしまったのだ。
 目を離したすきに体操服がごみ箱に捨てられていたり、朝学校に来ると上履きがなくなっていたり、机に見るに耐えない悪意の文言の数々が書き込まれていたり。
 そんな日々を私は絶望的な気持ちに打ちひしがれながら過ごしていた。どうして私がこんな理不尽な目にあわなければならないのか、どうしたって理解できるはずもなかった。
 私はすっかり人間不信で、遍くこの世の人間は皆私の敵であるのだと本気で思い込んでいた。
 その敵には、私のたった一人の親であるお母さんも含まれていた。お父さんがどこにいるのか、どんな人なのか、そもそも生きているのか死んでいるのか、お母さんは教えてくれることはなかった。物心ついた時から、私の家には私とお母さんしかいなかった。
 お母さんは私たちの生活費やその他諸々のお金を稼ぐために、いつも夜遅くに働きに出ていって、朝になると仕事から帰ってきた。昼間はずっと寝ていた。お母さんがなんの仕事をしていたか私はついぞ知ることはなかったけれど、おそらく普通の仕事ではないのだろうと私は推し量った。
 お母さんはいつも寝ていて顔を合わせることはほとんどなかったのだけれど、夜の私が寝る前くらいになると起きだしてきて、その短い時間だけ私とお母さんは同じ空間に居合わせることになる。お母さんはいつも私のことを邪魔者を見るような目で見てきて、私は親に愛されていないんだなということは、幼い頃から感覚でつかみ取っていた。私もお母さんのことは好きじゃなかったから、お互い様だ。
 そういうわけで基本的に私は独りぼっちだった。暇なので、本を読んだり、ポケギアでラジオを聞いたりして過ごしていた。

 ある日、汚水をかけられて悪臭を放つ体操服を抱えて、どうしたものかと考えながら帰路を歩いている時だった。
 田舎町で人間より多く目につく野性ポケモンたちを通りすがりに観察していた私は、一匹の珍しいポケモンを発見した。
 それはメリープだった。いや、メリープ自体は私の故郷では日常的に目にすることのできる、何の変哲もないポケモンなのだけれど、そのメリープの希少性は色だった。通常のメリープの体毛は柔らかなクリーム色だけれど、そのメリープは体毛が紫色だったのだ。何らかの要因で通常とは色彩の異なったポケモンが発生するということは知識としてあったけれど、実際に自分の目で見るのは初めてだった。
 他にも数匹のメリープ、こちらはクリーム色の普通のメリープがいて、彼らは皆で集まって遊んでいいた。紫はその輪の中に入っていこうとしているようだった。
 ところが、紫が他のメリープたちに近づいていくと、接近に気が付いた一匹のメリープが、ふうぅっと息を荒げながら威嚇を始めたのだ。すぐに他のメリープたちも気が付いて、最初の一匹と同じように威嚇を始めた。
 紫は一瞬怯み、足を止めたが、また一歩彼らの方へと踏み出した。次の瞬間、バチッ、と鋭敏な音と共に、激しい光が紫に突き刺さった。メリープたちが電撃を放ったのだ。衝撃で大きく吹っ飛んだ紫は、ボロボロで立ち上がり悲しそうに彼らの方を一瞥したが、ゆっくりとその場を後にした。
 異端の消えたその場所で、メリープたちは何事もなかったかのように、また遊び始めた。
 私は紫のメリープを追いかけて走り出した。
 メリープにはすぐに追いついた。見るからにしょげていて、とぼとぼと歩いているのだから、わざわざ走って追いかける必要もなかっただろう。
「ねえ、あなた」
 私は悲痛なその後ろ姿に声をかけた。
 メリープはおもむろに振り返って、私を確認すると、不思議そうに首を傾けた。警戒はされていないようだ。
 私はしゃがみ込んでメリープと視線を合わせて言った。
「私と友達になろうよ」
 これが私とメリープの出会いだ。

 それから私は放課後になるとメリープに会いに行くようになった。
 メリープは大体いつもいる場所が決まっていて、その辺を探しているとひょっこりと顔を出した。私が訪ねると嬉しそうに姿を現してくれる。私はメリープの身体を撫でたり抱きしめたり、私のほうから一方的に世間話をしてみたり、一緒にラジオ聞いたりして、彼女と過ごした。仲の悪いお母さんがどういう気まぐれか買ってくれたポケギアで聞けるラジオを私は存外気に入っていた。
 メリープはしばしばボロボロの身体で現れた。それはどうやら他のメリープたちに攻撃されたものらしく、私はまた懲りずに仲間に入れてもらおうとして追い払われたのかと思っていた。しかしどうやらこのメリープが何もしなくとも、他のメリープの視界に入ると攻撃されるようだった。ポケモンの界隈でも異端者は迫害されるのだなあ、とこの世の世知辛さを私は嘆いたりしてみた。メリープも自分の受ける仕打ちに辟易としているようだった。
 できればこの子を家に連れ帰って一緒に暮らしたかったけれど、お母さんが許してくれないだろうことは想像にかたくなかった。
「私たちはいつまで理不尽な暴力に耐えればいいんだろう」
 弱い私たちはただされるがままで、打開の策なんてものはどこを見回したって転がってなどいないのだった。
 なんで私たちは弱いんだろう。強くなれればいいのに。
 そう考えてから、強くなれるわけなんかない、とすぐさま自前の口で否定を唱えた。強くなろうと思って強くなれるようなら、最初から虐められることなんかないように思えた。だって今まで何もできなかったのだから。
 例えば空を飛びたいと願うポッチャマがいる。でもポッチャマなのだから空を飛べるはずがないのだ。飛ぼうと思って飛べるなら、それはポッチャマではなくなってしまう。
 私もきっと私である限り弱いのだろうな、と思う。きっとそういう宿命のもとに生まれてしまったのだ。ポッチャマは飛べない。私は弱い。
 ところで、学校の方は気が付けばもう数か月で卒業という時期まで迫っていた。だからといって何が変わるというわけでもない。
 田舎の学校は、卒業して進学しても、私を含めたほとんどの人は近くの同じ学校に進学するから私を取り巻く環境は何一つ変わりはしないのだった。一応義務教育は10歳までで終わるけれど、多くはそのまま上の学校に行くだけだ。
 頭のいい人は都会の学校を受験する。私もそうできればこの環境から逃げ出せるけれど、都会の学校は学費も馬鹿にならない。ただでさえお母さんは『また学費がかかる』などと文句を言っているのに、都会の良い所なんか行かせてくれるはずもない。 
「はあ、この町から逃げ出せたらなあ」
 そうぼやいた。逃げ出せるわけなんかないけれど。弱い私には逃げ出す術なんてありはしないのだから。
「あなたも一緒に逃げようよ」
 そう言ってメリープを抱きしめた。
 弱い者同士一緒に。
「あっ、そうか。一緒に逃げればいいんだ」
 私は閃いてしまった。
 この町から逃げ出せるたった一つの冴えたやりかたを。
 でも、できるだろうか。弱い私に果たしてそれが可能だろうか。
 いや、強くなればいいんだ。私は強くならなければいけない。
 10歳になって義務教育を終えたら、できるようになることがある。それはポケモントレーナーとしてポケモンと一緒に旅に出ることだ。
 自分のポケモンなんて持っていなかったから完全に失念していたけれど、もしメリープが私ともに来てくれるなら。私は、私たちは誰一人として味方のいない、敵だらけのこの世界から晴れて逃げ出すことができる。
「ねえ、私と一緒にこの町を逃げ出そうよ。ううん、旅をしよう。一緒に強くなって、味方なんていなくても自分たちで生きていけるようになるの」
 私たちとても弱い欠陥だけれど、欠陥同士補い合えばきっと一つになれる。強くなれる。
『強くなんかなれるわけないよ』
 そんな声がした。
 でもならなきゃいけないんだ。だって私には、それ以外に方法なんてないのだから。
 だから、強くならなくちゃ。


   0‐2


 さて、次のお便りはこちらだ!
 ラジオネーム『飛べないペンギン』さん、からのお便り!
『こんにちは、以前もお便りを投稿したポッチャマです。あれからも飛ぶことを夢見て頑張っています。
 さて先日上昇気流に乗れば私でも飛べるか? といったお便りを投稿しました。あれから私のほうで実際に試してみたのです。
 結果から言えばやはり私は飛べませんでした。そもそも上昇気流とはどこに吹いているのでしょう。海から陸に風が吹くと上昇気流になると聞いたのですが、どうも上昇気流が吹いている気配はありません。私の住む海に上昇気流は吹かないのでしょうか。
 なにはともあれ、私はまだ飛ぶことを夢見ています。諦めてないかどうかと言うと際どい所ですが、私にできることは飛ぼうと翼をはためかせることだけです。だからそうするしかないのだと思うのです。
 これからも番組楽しみにしてます』

   *

「すすきさん、海に行こうよ」
 あたしの隣のガキ、もとい枯夏は唐突にそう言った。
「海だあ? なんで急にそんなことを言いだすんだ、お前」
「このラジオを聞いてたらなんだか行きたくなっちゃた」
 枯夏はそう説明したけれど、今のラジオ放送と海との関連性は私には皆目見当もつかなかった。
「つーか、海ってこっから一番近いとこでも、コガネ挟んで真反対だぞ」
「電車使えば行ける距離だよ」
「そうだけどよ」
「暇でしょ、どうせ」
「なんかその言い方腹立つな」
 件のラジオのお便りは、なんというかわけのわからない内容だった。ポッチャマが飛ぶとか飛ばないとか。
 もうミュージシャンの夢を諦めてしまった私だけれど、私にできることといえばギターを弾いて歌をうたうくらいだ。そういう意味では私も飛べないポッチャマなのかもな。そう思ったりした。


   5


 あたしと枯夏は電車に何時間か揺られて、海まで来ていた。
 あまりにもしつこく枯夏がせがむものだから押されるような形で最終的にはこうなってしまった。まあ、私も久しく海には来ていなかったし、たまにはアリかなと思ってしまったというのもある。
 海と言っても海水浴ができるような綺麗な砂浜があるようなものではなく、高めの海崖に低い波がざっぱざっぱとぶつかってるような海だ。
 そんなつまらない海でも、暮れなずむ夕日の光が差せば、それなりに映えた情景を演出してくれる。
 私は重たいギターケースを地面に下ろして、広い海を一望できる海崖の上で立ち尽くした。
「実はさっきのラジオのお便りを出したのって私なんだよね」
 と枯夏は言った。
「あの飛べないペンギンってやつか」
「そう」
 枯夏は水平線の方に向かって勢いよく指を刺した。私はその指の先を目で追った。
 夕日を湛えた空の向こうで、キャモメたちが群れをなして飛んでいる。地図記号のような意味を持った配列のように一定の距離感を保ったままキャモメたちは遠くへ羽ばたいていく。
「キャモメって上昇気流に乗ると、羽ばたかなくても飛ぶことができるんだって。なんかずるいよね」
「なにがずるいんだ?」
「飛びたくて必死に羽ばたいているポッチャマがいるのに、キャモメは楽して飛べるんだもん」
 どんなにあがいてもできない奴と、いとも容易くやってのける奴がいる。それはどこの世界でも付いて回る才能の格差というやつで、多くの人間は生まれ持った自分の才能に振り回されて、埋没したり上手く飛び上がったりする。
「私はどんなに頑張ってもきっと強く離れないんだなあって。それでなんかむしゃくしゃしてあんな変なお便りを送ったんだよ。まさか二回も採用されるとは思わなかったけど」
「二回?」
「少し前にもね、同じラジオネームでお便り送ったんんだ」
「ふーん、どんなのを送ったんだ?」
「さっき聞いたのと似たり寄ったりの、至極くだらない内容だよ。皆ラジオなんて聞かなくてお便り送る人も少ないから、あんな変なものでも採用されちゃうんだよ、きっと。知ってる? あのラジオ番組、あと数回で放送終了しちゃうんだよ」
「好きな番組だったのか」
「ううん、全然。つまんないし」
 しれっと枯夏は毒を吐いて切り捨てた。
 なんだよそれ。
「たまたま付けたらやってただけだよ。あの司会者の人、才能ないよ。話面白くないもん」
 枯夏は盲目的に海だけを見つめ続けていて、表情を変えない。いや、彼女が見ているものは海ではなくて空だろうか。
 空も海もすべてが赤い。世界はまるで色褪せた写真のように淡く色づいていて、このまま時が止まっているかのようだった。これからあの太陽が身を隠し夜が世界を覆いつくすなんてちょっと信じられなくなってしまうくらいに、赤い。その赤はまるで泣き腫らしたあとの瞳のようでもあった。
「あーあ、私もポッチャマじゃなくてキャモメだったらなあ、きっと飛べるのに」
「お前はポッチャマだったのか」
「そうだよ。飛べない人は皆ポッチャマなんだよ。きっとすすきさんもね」
 それからすぐに枯夏は「あ、ごめん。なんか失礼なこと言っちゃった」と慌てて謝って来たけれど、あたしは別段気にしてはいなかった。
 飛べない人はポッチャマ。夢の叶わない人は、ポッチャマ。
 それならばあたしはたしかにポッチャマなのだろう。ミュージシャンを夢見て、インディーズ事務所のスカウトにCDデビュー、そんな上昇気流もあったのに、結局飛べないまま海に突き落とされたポッチャマ。
「でもお前は夢が破れるとか、そういう話をするにはまだ若すぎるんじゃねえの」
 齢14。夢とか青春とか、まだまだこれからの発展途上の季節じゃあないか。
 そりゃあ、あたしだってまだ19才だけれど、でももうミュージシャンなんか目指せないし、なれないだろう。朧げだけれど確信じみたものがあった。
「でも、ポッチャマが自分のことをポッチャマだと認識するのに、年齢なんて関係ないよ」
 そして枯夏はさっと身を翻した。
「なんだ、帰るのか」
 結局何をしに海までやって来たのかわからない。
「まだ帰らない」
 そう言いながらも、枯夏は海に背を向けて一歩一歩距離を測るように遠ざかっていく。枯夏のモココもそれに随伴する。
「どこ行くんだよ」
「空、かな」
「は?」
「上昇気流って風が海から陸に向かって吹くときに発生するらしいよ。どういう原理でそうなるかは全然知らないけど」
 枯夏は振り向いた。声を張らないとちゃんと言葉が伝わらない距離だ。よいしょ、という声が微かに聞こえ、枯夏は背負っていたかばんをその場に下ろした。それから枯夏はモココに何か囁いた。
 その場で軽く二、三回ジャンプし、「いくよー」と叫ぶ。
「は? 何言って……」
 枯夏とモココが一歩大きく踏み出した。また一歩。また一歩。進むごとに大きく加速していく。あっという間に枯夏は全力疾走でこっちに向かってきていた。いや、私に向かってきているわけではない。正確にはそのさらに先、海の方に向かって、走る走る。私がその意図を察したときには枯夏はもうすぐそこまで迫ってきていた。
 完全に反応に遅れたというのが一つ。まさか本当に飛び降りるわけがないと慢心したのが一つ。
「くっそ! 何馬鹿なこと考えてんだ!」
 私の横を走り抜けようとする枯夏の猛走を止めるべく、私は彼女の行く手に自分の身体を割り込ませた。
 しかし、枯夏はあらかじめあたしの挙動を予測していたかのように、軽く身を捻らせて私の真横をすり抜けた。そしてすれ違いざまにあたしの手を強く握った。あたしは枯夏の勢いに引っ張られて容易にバランスを崩し、海の方へ向かってつんのめった。枯夏は短く「飛ぶよ」とだけ言った。
 飛ぶよ、じゃねえよ。
 でもバランスを崩しよろめいたあたしの主導権は枯夏がしっかりと握っていて、あたしは振り払うこともできない。それにもうすぐ目の前で、足場は途絶えている。
 海崖自体はそこまで高いわけじゃない。昔テレビで芸人がかなり高い飛び込み台からプールにダイブしているのを見たことがある。おそらく高さとしてはそのくらいで、だから海に落ちても衝撃で死ぬことはないだろう。それにもう間に合わない。私は腹をくくった。
 下手に抗おうとして崖のすぐ下に落ちるよりかは、できるだけ離れたところに飛び込む方が安全な気がした。
 隣で枯夏がぐっと一際強く足を踏み込んだのを見て、あたしもバランスが崩れたなりに最善の踏切を目指して足に力を入れた。次の瞬間足の下から大地の反発が消失して、あたしたちは赤い海の高く上空を飛んでいた。ふわっと体が浮いて、空がほんの少し、無に等しいくらいの距離だけ近づいたようだった。
 ああ、飛んでる。
 でもあたしたちはキャモメじゃない。
 重力に逆らって空に近づいていた時間なんて、一秒にすら満たない。
 赤い海から幾多もの腕があたしたちに向かって伸びてきて、重力への反逆者たちを引きづり下ろそうとしてくる。あたしたちはその理不尽ともいえる暴力に抵抗するだけの飛翔能力はない。ただされるがままに、海が迫りくるのを見ていることしかできない。
 ポッチャマのいるべき場所は空ではなく、海なのだ。

   *

「むしゃくしゃしてやりました」
 と私は言った。
 私たちは器官に大量侵入した海水を嘔吐するようにびちゃびちゃと吐き散らかしながらせき込んでいた。唯一モココだけは平気そうな顔で、むしろもう一回やろうと言わんばかりの様子ではしゃいでいた。
 私の向かい側には鬼の形相のすすきさんが水面から顔だけを出して、平生よりも一層険しく私を睨みつけていた。たださえ、目つきが悪くて威圧感が強いのに、実際に怒ると思わずすくみ上がり、身体が震えてしまう。
 身体が震えるのは恐怖だけが原因じゃない。秋の海がここまで冷たいものだとは思わなかった。寒さのあまり歯の根がうまくかみ合わない。
「そこまで高くはなかったし下が海とは言えよ、あんなとこから飛び降りたら、当たり所が悪かったら普通に骨折とか脱臼とかすんだからな」
「はい……」
「つーか、お前大丈夫か、どっか痛いとか動かないとか、そういうのはねえか」
 言われてあたしは四肢を順番に動かしてその機能が問題なく働くことを確認した。随所を触ったり叩いたりして見ても、肋骨やあばらが折れているような感触はなかった。怪我らしい怪我はしていない。
「だったら良いけどよ」
 くしゃん! とすすきさんは似合わず可愛いくしゃみをした。私はつい笑いそうになったけれど、そんなことをしたら益々怒られてしまうのでぐっと堪える。
「とりあえずとっとと陸に上がるぞ。このままじゃ風邪引いちまう」
 とはいえ、このあたりは岬になっていて、手の届く足場が少ないから、陸に上がるのも一苦労しそうだった。近くに這い出られそうな浅瀬は見当たらない。
「くっそ。落ちるならひとりで落ちろよ……」
 呆れたようにすすきさんは呟いた。
「予定では飛んで水平線の向こうの大陸に降り立つはずだったんだけど」
「あ?」
「ごめんなさい、冗談」
「はあ……。ったく海でやりたかったことってこれかよ。で満足はしたのか?」
「うん」
 結局のところ、どんなに上手く気流に乗ったところで、私は飛べなかったんだな。というか上昇気流に乗れたのだろうか。海から陸に風が吹くと上昇気流が起こるというそれだけの知識で高台から飛翔を試みたけれど、どうなのだろう。落ちる時にしたからもの凄い風が吹いてきたけれど、あれが上昇気流だろうか。なんて。
 なにはともあれ、私は飛ぶことができなかったという、誰しもが一様に予想し得る奇を衒っていない当たり前の結末が無造作にできあがっただけだった。
「でも強くなりたいなあ」
 モココをしがみつくように抱きしめた。
 過去の弱くて惨めな私たちと決別して、自分のあり方に納得するには、それ以外に方法はないように思っていた。
「どうなったら強くなったことになるんだ」
 とすすきさんは尋ねた。
「今はジムバッジを集めているけど」
 今はまだ三つだが、もし全部集めたら私は強くなったと言えるだろうか。虐められてただされるがままに蹂躙されるだけだった頃の私たちはもういないと胸を張って言うことができるのだろうか。今の私たちには強者に立ち向かいそれを退けるだけの強さがあると、過去の自分たちを否定することができるだろうか。
 でもそんなことを考えたって仕方がないのだ。だって私にはジムバッジをすべて集めるなんて偉業は一生かかってもできる気がしない。モココと私だけでそれができるなんて思えない。
 世界にはたった一匹のポケモンでジムリーダーを完膚なきまでに叩きのめすような、圧倒的な人々もいるらしいけれど、私がその中のひとりになるだなんて、それこそポッチャマが空を飛ぶような話だった。
 じゃあ、今の生き方を止めるか。というとそれはない。
 強くなれなくても、空を飛べなくても、ただ盲目的に翼を震わせることしか、私にはできない。なんども海崖から飛び降りて、水に身体を打ち付けて痛めつけられて、ボロボロになって、それでも目が眩んだようにまた飛び降りていくんだろう。
 いつか気流に乗って飛び立つ、そんな憧憬を抱きながら。