アンダーグラウンド

マヨネーズ
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
         ヴェルレエヌ


一.
 上昇気流を利用して高度を稼ぎ、オニスズメの群れが青白い大空を、まるで自身らの自由度を誇るかのように飛び回っていた。路地裏にあるゴミ捨て場の前では、体が黒ずんでいるオスとメスのニドランが、ゴミを漁ろか、討論を繰り返していた。砂利道には、一匹のアーボが餌を探してうねうねと動いていた。餌となる獲物は探しても全く見つからず、腹いせに道路に無数に転がっている石を噛み砕いていた。
 ここは関東地方のちょっと外れにある田舎町であり、野生のポケモンも多少は町中で見ることができた。そんな町の中央には、一つの小学校が聳え立っていた。
 学校は現在、給食の時間を終えて、昼休みの真っ最中だった。昼休みは通常の休み時間とは異なり、たっぷりと三十分あった。
 そんなみんなが待ち望む昼休みの最中に、とある少年は、ずっと教室の席に座っていた。友達はみんな校庭に出て遊んでいる。彼だけ一人、ここにいる。
 少年は、みんなから仲間外れにされているわけではない。彼が望んで一人になっている。けれども別に、一人でいることが好きということでもない。できることなら、皆と一緒に遊びたい。
 この世界特有のとあること。それが校庭内で今現在起こっていて、少年はそれを見たくないのだ。
 だが、見たくないと思っている割に、どうしても気になってしまうときがある。時折彼は窓まで歩き、カーテンをちょっとだけ開く。本当にちょっとだけ。そして開いた後、眼の前の光景に嫌気がさして、直ぐにカーテンを締める。
 一体何がしたくて見たくないものをワザワザ見ようとするのか。怖いもの見たさ、という言葉がある。けれどもそれはちょっと違う。本当にそれは不快なものなのか、そして、不快だと思うその心は偽りではないのか、確認をしたいのかもしれない。
 少年は、わだかまりを抱えて生きている。
 それは、床にへばりついたガムの如く、いつまでも気持ち悪く心に居残っている。いつこの気持ち悪さが肥大化し、抱えきれなくなった自分を支配するのか。あるいは、この気持ち悪さに堪えきれず、誰かに告白をして恥ずかしい思いをすることにならないか。少年は、それに怯えていた。


 この世界では、十歳になるといつくかの許しを得られる。ポケモンを所有すること。ポケモンを戦わせること。ポケモンと旅をすること。学校に通う子達は公平を期するために、小学五年のときに全員同時にそれらの許可を与えられている。
 五年生になったばかりの子供達は開放感に溢れている。昼休みの時間になると、ポケモンバトルばかりやっていた。
 だがこの少年は、ポケモンバトルをやらなかった。一度もバトルしたことがないのは、同じクラスの中で他には三人しかいなかった。三人のうちの一人は、ポケモンが怖くて触れない子だった。もう二人は、親の方針でバトルを禁止されている子だった。少年には、そのような事情はなかった。
 なぜ、少年はバトルをしないのか。
 彼は、ポケモンを戦わせて傷つけることをしたくなかったのだ。
なんでみんなは、平然とした表情でポケモンを戦わせられるのか、全然分からない。どうして相手のポケモンを傷つけられるのだろう。どうして自分のポケモンが傷ついても平気なのだろう。ポケモンが、可哀想だとは思わないのか。
 少年は、そんなみんなの様子に恐怖心を覚えた。みんなに対する嫌悪感や軽蔑する気持ちもあるけれど、それ以上に怖いという気持ちが強かった。みんなへの恐怖心から、彼は更にポケモンバトルをやりたくなくなった。
 親や先生といった大人達は、「ポケモンを戦わせるのは止めなさい」なんて注意してこない。その変わり、「ポケモンにあまり無理をさせるな」とか、「ポケモンがダメージを受けたらちゃんと回復させてやれ」とか、そういった注意をよくする。
 そういった言葉は、バトルはやっても良いという思想を抱いているから湧いて出るものだ。バトル自体がそもそも駄目なんじゃないかって考えている彼には、それらの注意は著しく的が外れているように感じた。
 戦わせている時点で、ポケモンを傷つけている時点で、もう終わっているのだ。入ってはいけない場所まで、足を踏み入れているのだ。そこまで行ったら、後はもう何をしても良い。そういう空間にいるのだ。ボロボロになるまで戦わせようが、傷を癒やさないでいようが、関係ない。なぜなら、もう終わってしまっているのだから。


 道徳という授業が小学校にはある。道徳の授業は大抵、先生が教科書に書かれたメッセージ性のある話を読み上げ、「こういうときにはこんなふうに行動しましょう」みたいなことを纏め、生徒達に正しい道を説く。    
 しかし五年にもなると、このようなやり方ではなく、より生徒に主体的に考えさせるやり方を取ることがある。まず教師がお話を読み、この話に対する二つの考えを掲げ、生徒にどっちが正しいと思うか訪ねる。そして同じ考え同士でグループを作り議論させるのだ。
 そのような形態の道徳の授業で、「弱いという理由でポケモンを捨てるトレーナーをどう思うか」を議論することがあった。一応少年は人数の多い、「捨ててはいけない」と思うグループに入った。だが正直言って彼は、こんな議論は馬鹿げていると思っていた。
 やはり、そもそも前提がおかしい。弱いから捨てて良いとか以前に、戦わせるのがまず異常だ。そう声に出して主張したかった。主張したかった、だけだった。
 議論が終わった後、授業の終了を告げるチャイム音と共に先生がこんなことを、微笑みを浮かべて話す。
「今日はみなさんに議論をしてもらいましたが、結局のところ考え方は人それぞれです。ポケモンを捨てても良い。捨ててはいけない。どっちの考えも間違ってないと先生は思います。自分と違う考えを強く否定したりはせず、お互いの考えを尊重し、今日みたいにまずは耳を傾けてあげるようにしましょう」
 それを聞いて少年は心がズキズキと傷んだ。考え方は人それぞれだが、自分は『それぞれ』の中には入っていない。そもそもの『前提』が異常だと思っているから。
 先生は考えの多様性を認めたつもりになっている。しかし少年はその『多様性の枠組み』からも、自分は外れていると考えてしまった。
 そんな先生に対して彼は今度こそ自分の意見をはっきり言いたい衝動が湧いた。だがそんな衝動が湧き出してもなお、声を出す勇気は一ミリも生まれてこない。結局、黙って座っているしかなかった。
 何か先生に意見を言うだけでも、果てしなくハードルが高いこと。ましてやこれみたいに、なんだか禁断の扉をこじ開けてしまいような、更には周囲に気まずい雰囲気を漂わせそうな、そんな類の発言を放つなんていうのは、この後死ぬ覚悟でも持たないとできないことだ。
 そもそも、そんなことを言う勇気があったとして、果たして彼は、自分の思っていることを上手く言語化できるだろうか。そこも怪しい。「ポケモンを戦わせるのはいけないことです。ポケモンが可哀想だから」って言ったとする。「なぜ可哀想思うのですか」って返されたとする。「痛いのはポケモンが嫌がると思うからです」って少年は答えるだろう。そしたら「ではなぜ痛いからと言ってポケモンが嫌がると分かるのですか」って更に返される。すると、はい、試合終了。頭が真っ白になり、何を言っていいものか分からなくなる未来が見える。
 であるので、自分では絶対に言うことができない。非力な自分の変わりに、誰か手を上げて発言してくれないものか。だがそんな人なんていつになっても現れない。毎日のように先生に口答えしているトモキ君に多いに期待をしていたが、今はその子も沈黙していた。
 結局少年は、自分の生々しいこの思想を伝えることが、この先もずっと、いつまで経ってもできなかった。先生だろうと、友達だろうと。誰にも打ち明けないまま、この後ずっと成長していった。


 人間とポケモンが歪に共存するこの世界。少年は今までこの世界の様々な光景を観てきた。見てきた、ではなく観てきた。
 少年は『そこ』にほとんど介入できなかった。ひたすらに傍観者であり続けた。
 それは、彼が外側から批評したがるような斜に構えた性格だからではなく、『そこ』は自分がいる世界とは違う世界だと思っていたからだ。『そこ』と自分がいる場所は、確かに道は繋がっているし、途中に段差もないのだけれど。
 彼にとって『そこ』は映画の世界そのものであり、自分が干渉することに違和感しか抱かなかった。自分の干渉によって映像が変わるという現象に恐怖を感じた。
 母親に夕食のおかずを買ってくるように頼まれて、一人でやってきた商店街。『そこ』に、ジムバッチを八個集め、来週ポケモンリーグに挑戦しに行くトレーナーがいて、商店街全体が盛り上がっていた。恐らく、その人は商店街で働く人の誰かの子供なんだろう。商店街の店員達が挨拶してきたその人に、次々と応援の言葉をかけていた。「頑張ってほしい」。「この町の誇りだ」。買い物をしにきたおばさん達まで応援していた。
 風邪を引いて病院に行ったときのことだった。待合室のテレビでは、ポケモンバトルの試合が映っていた。彼はテレビが見えにくい位置に座っていた。見やすい位置には、チャンネル権を獲得した老人が多く座っていた。『そこ』に座っていた老人二人が、なにやら愚痴を言い合っていた。「最近のトレーナーは基礎がなってないねえ」。時折咳き込みながら二人は、この国の未来を憂いでいた。
 だいぶ昔の話、彼は母親に連れて行かれ、近所の大型スーパーへと行った。母親が買い物をしている間、屋上のポケモンバトル大会でも観ているように言われた。バトルに疑問は抱いていたものの、まだこの時期は目を背けたくなるほど感受性が育っていなかった少年は、母親の命令を拒否しなかった。屋上ではゴーリキーとユンゲラーが戦っていた。『そこ』に集った老若男女は、しょぼいステージでのバトルにも関わらず、熱狂していた。バトルが終わると、健闘を称えるべく拍手をしていた。『そこ』に集った人みんなでバトルをやっているのだと感じた。
――様々な日常に、あまりにも自然に溶け込んでいた、ポケモンを戦わせるという行為。
 幾多の『そこ』の光景を思い返していく。更に『そこ』に、今日までの『学校』での友達や先生の言動を付け足していく。内側から見た『世界』と外側から見た『世界』。全ての『世界』を順に並べ、指で触ったり線で繋いだり重ね合わせたりする。ひっきりなしに弄ぶ。そうしていると、突然少年ははっとなった。ある真実に気が付いたのである。
 ポケモンを戦わせてはいけない。こんな思想を胸に潜めているのは、この『世界』で自分一人だけなんじゃないだろうか。
 そうだ、自分一人だけがお変人で、狂人なのだ。自分だけがバトルに熱狂できず、傷つくポケモンを憐れに思い、仲間外れにされているのだ。
 更に少年は、このようにも考えた。自分だけ他の人が知ることのない真実に気がついている。自分だけが、狂乱であること、人々の異常っぷりを悟っている。
 水中深くに潜った。誰も手が届かない場所まで、途中息苦しくなりながらも潜った。そして深海に唯一存在するおどろおどろしいほど眩い光を、自分は見たのだ。地中にもって帰れれば、世界が一変して明るくなり、この世の闇が全て暴かれるような、そんな光を目の当たりにした。
 つまり自分は、神に選ばれた存在なのではないか。他の人よりも頭が良い。ノアの方舟に乗れた存在。そう考え、彼はちょっとだけうっとりした。突然空気が美味しく感じた。布団の上で寝っ転がり、ハンモックの上で気持ち良く寝ている自分を想像した。自分の顔を鏡で何度か見た。ガラス玉のように透き通った自分の目を見て、小学生に似つかわしくない微笑を浮かべた。ああ、自分は特別なのだ。
 このような考えに至ったのは、少年が学校で最も勉強ができたから、というのも大きかった。テストでは毎回百点を取っていた。計算も速かったし、友達とのクイズ大会でも負けなしだった。
 その一方で、他人と違う思想を持っていることに対する、どうしようもない不安もあった。この考えを世間に公表したとき、迫害されたりしないだろうか。独りぼっちにならないだろうか。そんな不安を抱いたせいで、彼は悪夢さえも見ることがあった。
 恍惚と不安。少年は両方の気持ちを抱えていた。両方の気持ちに苦しみながら、生きてきた。
 

 下校中、「うちのニャースを見つけたら連絡下さい」っていう張り紙が貼られているのを見かけた。戦わせたから逃げたんじゃないかと少年は勝手に想像した。付近の川ではニョロモが、小さい子と一緒に水を掛け合って遊んでいた。つい夢中になってしまったのかニョロモが水鉄砲を発射しようとして、子供が慌てて阻止した。一匹のガーディが、半壊された公園のフェンスの匂いを嗅いでいた。近くにはパトカーが一台停車していた。ガーディは警察犬として、フェンスを壊した犯人の匂いを調査している。
 学校から帰宅した少年は、ランドセルを置いて、ソファーに座ってしばしボーっとした後、意を決して、リビングの棚に置かれた埃を被った本を手に取った。それは辞書であった。かなり古いものだ。セロハンテープでくっつけてあるページもある。
 少年は、どうしても調べたい単語があった。
 それは、『瀕死』という二文字の熟語。
 この単語を初めて耳にしたのは、幼稚園のとき。父親が聴いていたラジオでポケモンリーグが流されていて、ポケモンが負けると実況者が「とうとう瀕死になってしまいました」なんて言っていた。だが彼は『瀕死』が一体どういう意味なのか、今日までいまいちよく分からないでいた。負けたポケモンの状態のことを言っている、ってことは分かるが。
 なぜ今まで調べなかったかというと、恐ろしい言葉であったらどうしようという思いがあったからだ。負けたポケモンの状態を示す言葉なんて、まずい味のする言葉であるような気しかしない。
 だが五年生になると、『瀕死』という単語が日常的に飛び交うようになる。昼休み中窓の外から、この単語が頻繁に聞こえてくる。このような状況になれば、好奇心が恐怖心に自然と勝ってくる。調べなくてはならないという義務感も湧いてきた。
 学校の授業では『瀕死』の意味は教えてくれなかった。だから、自分で調べるしかない。
 辞書なんて滅多に開くものでもないゆえに、それは酷く埃を被っていたから、少年は埃が鼻に入りくしゃみを強いられながら、ページをめくっていくハメになった。とりあえず「は行」の最初のページを開いた。そこから一ページずつめくっていき、お目当ての単語を探していく。「ひ」のページまで到達したとき、自分の心臓の音が大きくなっていることに驚いた。そこまで緊張するようなことではないはずなのに。落ち着け。『瀕死』は「ひ」の中でも最後の方だ。 
 そして見つけた、その単語を。あまりの衝撃に少年は「え?」という声を上げた。辞書に顔を近づけて凝視する。勢い良く前屈みになったせいで、ソファーが小さく悲鳴を上げた。
 そこには「瀕死とは、今にも死にそうな状態のことである」、と書かれていたのである。


 すぐさま少年の脳内に浮かんだもの。それは今日校庭でバトルして負けて倒れていたキャタピーの姿だった。
 カーテンの隙間から覗いたとき、視線の先にはうつ伏せで倒れているキャタピーと、それを抱きかかえようとしている友達のユウイチ君がいた。確かキャタピーは、意識は確実に失っていた。よく見えなかったが、緑色の体にはいくつかの擦り傷切り傷が付いていたに違いない。少量なら出血をしていた可能性もある。
 もう一度見てみたときには、キャタピーはすでに起き上がっていた。ヤドンとビードルのバトルをトレーナーと共に応援していた感じだった。少し元気がないような気はしたが、明らかに先程より回復している。ユウイチ君がキャタピーに傷薬を塗ったのかもしれない。
 そんなキャタピーの様子を思い出した後、少年は頭に疑問符を浮かべた。おかしい。どこが死にそうな状態なんだ。辞書に書いてあることと違うじゃないか。
 まず、本当に死にそうなら、死なないようにすぐに救急車を呼ばないといけない。傷薬なんかで治まるわけがない。保健室に連れていくのも駄目だ。一秒でも早く救急車を呼び、ポケモンセンターに運ぶ必要がある。いやそれか、もう手遅れではないか。
 また、本当に死にそうなら、もっと体が見るも無残な状態になっていないとおかしい。あのときのキャタピーは、別にそんな状態でもなかった。
 少年は心に抱いた独特な気持ち悪さを、なとかさっぱり除去しようと努めた。辞書に記述されてあることに、偽りなんてあるはずがない。
 少年はあの光景を辞書の内容とリンクさせるべく、あれやこれやとこじつけを開始した。きっとそうだ。キャタピーは、実はああ見えて死にそうな状態だったんだ。体の表面には大きな傷はなくても、内蔵はぐちゃぐちゃになっていたのだ。骨だってバキバキに折れていたに違いない。そして、あの傷薬は内蔵や骨の修復すらもできるのだ。人類の叡智だ。
 芋虫には骨がないことに気が付かない程、彼は夢中になって妄想した。なんとかして辞書の記述にリアルを合わせないと気が済まなかった。


 少年はその後も何度も辞書で『瀕死』の意味を確認した。何度確認した所で書かれてあることは同じだと分かりきっているのに、そこにある真実を確認せずにはいられなかった。何度も見たせいで、そのページをほぼ一発で開けるようになった。そこの行にアンダーラインを引いたりはしなかった。家族共用のものだし、誰かに見られたらまずい。何よりそこに書かれた真実を、アンダーラインを引けるほど受け入れることができなかった。
 後になって、ポケモンバトルにおける『瀕死』というのは、実際の『瀕死』とは意味が異なるものである、ということが判明した。あくまで「戦う元気がない状態」らしい。リビングに置いてあった古い辞書にはなかったが、比較的新しめの辞書には、ちゃんとその旨が記載されていた。
 だがそんな真実を知っても、まだ心の中に気持ち悪さを残したままだった。ではなぜ『瀕死』なんていう物騒な呼び方をするのか。もっと適切な呼び方があるだろうに。
 これに関してはきちんと思考を巡らして答えを出した。大晦日にテレビで見た総合格闘技で、「○○選手の必殺技」などが字幕で出てくることがあった。必殺技とは必ず殺す技のことだ。読んで字のごとく。だが実際には、格闘技では相手を殺そうとはまずしない。だから必ず殺す技では決してない。けれども、そういうふうに表現した方が面白いから「必殺技」なんて言っている。
『瀕死』呼びに関しても同じ理屈なんだろう。本当に死にそうな場合でなくても、多少大袈裟に表現をした方が、場が盛り上がるからだ。人々の闘争本能を刺激するからだ。面白いからだ。
 と、結論付けてからも、まだなんとなく腑に落ちなかった。いくら闘争本能を刺激するからとはいえ、そんな呼び方するのだろうか。やっぱりポケモンは、ああ見えて死にそうな状態なんじゃないだろうか。いよいよ彼は思考がループし始めた。
 少年は毎月買って読んでいた少年誌に掲載されていたギャグ漫画で、登場人物が過度にやられたり、爆発して黒焦げになったりすると、やたらとその人の安否が心配になり、その絵が脳内にいつまで経ってもこびり付いていることがあった。ギャグ漫画のキャラは決して死なないし、そこに描かれている光景は全て『冗談』であるけれども、彼はなぜか本気で考えてしまう悪性があった。
 ポケモンバトルで『瀕死』という表現を使うことも、それと同じ類の感覚で不安になるものがあった。死にそうになることを『冗談』と捉えてしまう世間に対する恐怖心、だろうか。
 少年は、もっと適切な、『瀕死』に変わる言葉がないか探した。夜遅くまで布団の中で考える。短くて端的な言葉が良い。残酷に見えない言葉を選びたい。いや、むしろ残酷性をある程度は見せびらかすような言葉にした方が良いのか。
 夢うつつの中、彼は丁度良いのが思い浮かび、布団から突然飛び上がった。『戦闘不能』なんてどうだろう。うん、これは、なかなか良い呼び方じゃないか。「戦う元気がない状態」を、厳格っぽい四字熟語で表した言葉だ。『瀕死』ほどエグみもなく、それでいて残酷性も完全には隠してはいない。
 我ながらぴったりハマる言葉を思いついたと、明日学校もあるというのに夜な夜な一人で歓喜した。大きくなって大学に通うようになったら、学会かなんかでこの言葉を発表しよう。先生達は目を丸くして驚くことだろう。テレビ局のカメラマンは一斉にフランシュを焚くんじゃないか。そんな、アホなことも考えた。



 
ニ.
「うわー、イーブイ可哀想」
 同じクラスの、髪が染まった若干不良気味の女生徒が、突然にして不穏めいたことを叫んだ。その女子中学生の高い声は、休み時間の騒がしい教室内であっても実に良く響いた。
 その声が鼓膜を震わしたとき、この少年は咄嗟に振り向いた。あまりに早く首を百八十度回転させたため、喋っていた友達が「誰かのパンツでも見えたか」と苦笑いしながら茶化した。
 叫び声を上げた女生徒の目先には、今日の目標や連絡などを記入する用の、俗に言う裏黒板があった。その黒板には、イーブイのオリジナルの進化系が描かれていた。アグレッシブな生徒が放課後にでも描いたのだろうが、その絵は酷くて見るに堪えないものだった。どうやら岩タイプの進化系らしいそれは、四足歩行の獣の頭に岩が積み重なっているという、余りにもダサいデザインだった。そんな絵を見たあの女生徒が、「可哀想」と叫んだ模様だった。
 誰かの手持ちであろう首輪を付けたイーブイが黒板の前に座っていた。イーブイはがっくりと項垂れていて、耳も垂れ下がっていた。同じく誰かの手持ちであろうシェルダーが、そんなイーブイを慰めていた。舌を必死に動かしているから、何か慰めの言葉をかけているのだろう。
 少年は、イーブイとは全く別の理由で同じようにがっかりしていた。まだ名前を知らないあの女生徒は、ダサい進化系を勝手に妄想されて描かれたイーブイを「可哀想」と評したらしく、それで少年はがっかりした。
 少年は日常において、ポケモンに対して「可哀想」とか「酷い」とか「うわあー」とか言っているのを耳にすると、心臓がドクッと反応し、毎度の如く首をそっちに高速で回転させていた。それを見た友達が訝しみ、少年が「なんでもないよ」って必死に隠すのがお決まりのパターンだった。
 少年はお目当ての方角に振り向くとき、毎回「いよいよか……」という期待を強く込めていた。自分以外の誰かがバトルの残虐性を悟ったのだろうか、という期待を込めていた。
 しかし今回のように期待外れであるときばっかりだ。少年はがっかりし、そして、少しだけホッとした気分にもなる。
 教室が、気まずい空気になったら怖い。
 自分意外の誰かが、例の思想の所有者でなくて良かった。


 カーテンの隙間からバトルを恐る恐る覗いていたあの少年は、地元の私立中学へと進学した。
 中学と言えば思春期。一つのことに過剰に思い悩んだり、親や教師に反抗し始める時期だ。この少年は特に大人に反抗したりすることはあまりなかった。強いていうなら、パソコンを欲しがるようになったことぐらいか。母親は成績が落ちるという理由でパソコンの購入を許してくれなかった。彼は小学校のパソコンの授業で、それが面白いものだということを知った。パソコンの中の世界は、こことは違う世界が広がっていると想像していた。
 少年は中学になってからも相変わらず、ポケモンバトルをすることができなかった。しかし、観ることに関してはかなり耐性が備わってきた。グロ画像よろしく、一瞬でも良いから繰り返し見れば、次第に大丈夫になっていくのである。
 中学ともなれば、もう昼休みにバトルをやっている人は絶滅した。
その変わり、『ポケモンバトル部』という部活動が存在していた。活動は活発で部員数も結構多く、大会でもまずまず結果を出している部活だった。少年がその部活を嫌っていたのは言うまでもない。
 だが少年は、大嫌いなそれを観察すれば何かが掴めるかもしれない、とも考えた。そこで彼は、ポケモンバトル部の様子を見学しにいった。なぜ人は大事なパートナーを無慈悲にも戦わせるのか、真実を教えてくれるかもしれない。
 今は新入生が入部する部活動を決める時期だった。この時期に限って、敷地内に入っての見学が許されていた。
 敷地に辿り着くと、多くの一年生が見学にきていた。ポケモンバトル部は現在、公式戦の模擬試合を行っていた。なるべく多くの一年を入部させようと、今の時期は見栄えするような実践的な練習を多くやっているようだった。観にきた一年生達は大はしゃぎだった。実践練習をやってくれるのは少年にとっても有難かった。技の練習をちまちま壁に向かってやっているのを見ても、何も掴むことができない。
 部員達が汗だくになりながら自身のポケモンに命令し、そしてポケモン達は雄叫びを上げながら技を勢い良くぶっ放していた。技がぶつかり合い、至る所で爆発が起こる。小学生同士の戦いとは明らかに格が違う、激しい応酬が繰り広げられていた。爆発が起こる度に一年生は興奮していた。拍手をする者もいた。少年一人が完全に浮いている状況になったが、浮くのももう慣れたものだった。
 少年は視線をあっちこっちと動かす。目を背けたのは、サイホーンがサワムラーの回し蹴りをまともに受けたときぐらいだった。それ以外はしっかりと観察し、例の思想を覆す鍵となるものを探した。
 ある一つのバトルを他よりも長い時間かけて見つめていた。ピジョンとリザードのバトルだった。それは少年が立っていた場所から一番良く観ることができた。
 たった今ピジョンが攻撃を喰らった。リザードの鋭い爪を避け切れず餌食となった。トレーナーの指示がワンテンポ遅かったようだ。ピジョンの翼には痛々しい傷がつき、素人目から見ても飛び方が不安定になっていた。そんなピジョンに対してトレーナーの先輩はこのように言った。
「うう、ごめん。ピジョン」
 彼女は、ピジョンに対して謝罪をしたのだ。手を合わせていた。表情は申し訳なさそうだ。ピジョンはその言葉に一瞬だけ頷き、直ぐ様リザードに反撃をするべく体制を整える。
 少年はさっき彼女が言ったことを、一字一句はっきり聞き取っていた。ただならぬ違和感を抱いた。彼女が言ったことには矛盾と建前しか感じなかった。
「謝るぐらいなら最初から戦わせなければ良いのに……」
 少年はぼそっと呟いた。あえて、隣の一年生の女の子にはギリギリ聞こえるようなボリュームで呟いた。しかし思惑通りにはいかず、隣の子は、こっちを振り向きもしなかった。その女の子は、バトルに夢中になっているようだった。
 先程のサイホーンがかなりダメージを受けてしまったようだ。サイホーンは必死に起き上がろうとしていて、トレーナーは「根性出して立ち上がれ!」と熱い声で叫んでいた。つられて一年の子も口々に応援する。サイホーンは懸命に自身の体を鼓舞し、とうとう起き上がってみせた。一年生は一斉に拍手を始める。
 少年は昔先生が「ポケモンにあまり無理をさせるな」って注意していたのを、記憶から引っ張り出していた。ポケモンバトル部の顧問の先生は眼前にいる。先程の様子をしっかり見ていたのに、注意喚起の笛すら鳴らさない。
 先生、いったいどっちなんでしょうか。
 パートナーが辛そうなら、無理をさせるべきではないのか。パートナーが辛そうなら、叱咤激励してあげるべきなのか。
 なんでこういう矛盾には、誰も気が付かないんでしょうか。


 少年は一番遅くまでポケモンバトル部を観続けていた。日が暮れてからも熱心に観察しているものだから、部員の先輩達からひそひそと話をされた。「入部確定だな」。そう言いながら、部長らしき人が嬉しそうにガッツポーズしていた。
 入部なんか絶対にしない。むしろ少年は、紛れもないポケモンバトル部のアンチである。半分は叩いたりディスったりする目的でここにいる。どこにも晒したりは絶対にしないけれど。
 部長まで誤解させてしまったことを申し訳なく思い、少年はさっさと帰ることにした。ポケモンバトル部を一日中観たが、はっきりと掴めるものはなかった。けれども観て損はなかった。この世に、無駄なことなど何もないのだ。
 バトル場に背を向けた。その瞬間のことであった。少年は肩をトントンと優しく叩かれたのだ。
 振り向くとそこには、さっき隣で観戦していた女の子がいた。彼女も今日遅くまで残っていたが、つい先程帰ったはずだ。
 何故今ここにいるのだろう。自分に何のようだろう。
「え、え、どうしたの……」
 戸惑いを隠しきれない少年に対して、少女は腕を後ろに回して微笑んだ。泣ける程淡い夕焼けを背にして、少女はこんなことを言ったのだ。
「さっき、私にだけ聞こえるように呟いていたでしょ」
 顔面蒼白、手の震え。鼓動の揺らぎと汗の波。
 さっきの少年の呟き。それは禁断の呟きだった。その呟きをこの少女はちゃんと聞き取っていた。それどころか、ボリュームの調整を巧みに暴いた。この子にだけ聞こえるようにそっと呟いたことが、見透かされていた。
「ねえねえ、なんで私にだけ聞こえるようにしたの。ねえねえ、教えて」
 理由なんか、答えられるはずもない。
「謝るぐらいなら最初から戦わせなければ良いのに……」。それをみんなに聞こえるように話すのは恐ろしいから、隣の子だけ聞こえるように呟いて、反応を伺ってみたかった、なんて。隣の子には大袈裟にリアクションして欲しくなくて、ちょっと振り向いてハッとしたりしてくれれば十分だった、なんて。それ以上は求めていなかった、なんて。
「なんていうか、その。自分なんか言ったっけ。よく覚えてないや。ごめん」
 あまりにも粗雑な少年の誤魔化し。それが災いし、以後ずっと沈黙が続いた。
「じゃあ、自分はこれで」と切り出して帰る勇気は、少年にはなかった。そう切り出した瞬間彼女から、『トドメ』を喰らわされる気がしてならなかった。
 もしかしてこの子、自分の気持ちなんか全てお見通しなんじゃ……。
「あ、急に話しかけてごめんね。私ちょっとビックリして。ねえ、君のこともっと知りたいな。また明日、お話しようよ。ここの近くで」
 ちょっとだけ申し訳なさそうな表情を浮かべた後、そう言って彼女は、去っていた。
 

 その夜。少年はタオルケットを被りながらそれはもう子羊の如く震えに震えた。夜中に冷蔵庫を開けて牛乳を一杯飲んでみたが、全く落ち着かなかった。
 あの女の子。一体何なの。
 何を考えていた? 何を見通した? どうして自分を尋ねた?
 彼女の行動原理が、さっぱり理解できない。
 彼女は最後に、こう言っていた。 
――また明日お話しようよ。
 その優しそうな言葉に少年は恐怖しか感じなかった。もし明日、会いに行かなかったら、バトルが残酷だって考えていることを、学校中にバラされるかもしれない。そしたらみんなから変な目で見られる。みんながひそひそ自分の話をするかもしれない。そんな被害妄想を繰り広げた。
 だから少年は、行くしかなかった。
 翌日彼は約束を守り、放課後にポケモンバトル部の活動場所までやってきた。ポケモンバトル部の活動は本日休みみたいで、その空間はえらく深閑としていた。
 少年がやってきたとき、少女は木の下にぽつんと立っていた。少年と目が合うと「来てくれてありがとう」って静かに笑って言った。少年はとりあえず笑って返した。たぶんぐちゃぐちゃの笑顔に見えただろう。
 少年と少女は、近くにあるベンチに座って話をした。
「ケーシィってポケモンなの。かわいいでしょ」
 少女はベンチに座ったらすぐに、手に持ったボールからポケモンを出した。光の粒子を撒き散らしながら現われたのは、ケーシィというポケモンだった。キツネに良く似たポケモンで、エスパータイプだ。1日の大半を寝て過ごすが、現在は一応起きているらしい。
「ケーシィなんて、珍しいポケモン持ってるね」
「うん。テレポートしか使えないんだけどね、私のケーシィ」
「テレポート?」
「ケーシィはね、どこか違う場所に瞬間移動できるの。それだけ。相手に攻撃とかはできないんだ」
「でも、便利そう」
「うーんでも、たまに勝手にテレポートしていなくなっちゃうから、探すのが大変なんだよね」
「ははは」
「ねえ、あなたはどんなポケモン持ってるの。見せて」
「いや自分はポケモン持ってないんだ」
「へえ、珍しいね」
「親が駄目って言うんだ」
「あらら、厳しい家庭なんだね」
「まあ、ポケモンバトル部に入部することになったら、親に土下座してお願いするけどね」
 少年がポケモンを一匹も所有していない理由は、親が反対するからではない。ポケモンをボールで捕まえるには、まず弱らせないといけないからだ。親戚や知人から譲って貰う手もあるけれど、結局はそれも同じこと。譲ってくれる人は、ポケモンを弱らせて捕まえた訳だから。譲ってくれる人も、誰かから譲って貰ってポケモンを得た? いやいや、譲ってくれた人に譲ってくれた人は、ポケモンを弱らせてゲットしただろう。 
「ポケモンバトル部に入部するのはもう決定?」
「いや、自分はまだ決めてない」
「私もまだ迷ってるんだ。どうしよっかなー。ポケモンバトルって楽しそうだけどね」
「うんまあ、楽しそうだね」
「楽しそうだよね。技を思いっきり放ったりとか。でもなあ、テニス部の方がいいかなー」
「昨日遅くまで観ていたのに入部するの迷ってるの?」
「ん? 昨日は、あなたの方が遅くまでいたでしょ」 
 そんな他愛もメリットもない会話を繰り広げていく中、二人はそれなりに打ち解けてきた。いつの間にか、彼らはクスクスと笑っていた。  
 少年は、この子と話すのは結構楽しいと思えてきた。恋が芽生えるまではいかなかったが、彼女のことは決して嫌いにはなれなかった。
 昨日の夜の懊悩が嘘であるかのように、少女に対する警戒心が解かれていた。この子はそんな、みんなに自分の本性を晒すなんてことはしないだろう。そう確信が持てた。この子がなぜ昨日話しかけてきて、本日自分なんかと会話しているのか謎のままであるが、それもまあいいかと思えてきた。
 

 それからというもの、二人はちょこちょこ会うようになった。クラスはお互い違うが、よく話した。廊下ですれ違うとついつい話し込んだ。昼休みに一緒にお弁当を食べたこともあった。放課後に一緒に帰ったこともあった。
 まだ出会ってからそこまで日数は経ってないが二人はとてもよく気が合った。二人は実に良く似ていた。ポケモンバトル部の活動を遅くまで観ていたのに結局入部しなかったり、パソコンが欲しいのに親が買ってくれなかったり。共通点が割と多かった。
 そしてこの前、「明日の開校記念日に一緒に遊ぼう」という電話が彼女からきた。
 少年は快く応じた。もうあの子に警戒なんて微塵もしていなかった。
 それどころか少年はある感情を抱いていた。それは、今までの彼であるなら、決して抱くことはなかったであろう感情だった。
――もしかしたらあの子になら、自分の生々しい胸の内を、告白することができるのかもしれない。
 少年と少女は翌日、地元の映画館へと向かった。彼女が観たいと行った映画を二人で観た。 
 それは、戦争物の映画だった。
 その映画は、ポケモンの持つ力が人間の戦争に利用されるという、中々ハードな内容だった。カロス地方という海外にある国が舞台の映画らしい。どう考えても、中学生の男女二人が観るような内容ではない。爆弾を抱えたポケモンが大量に並ばされて、砲台のような物にぶち込まれ、次々と敵陣に発射させられていた。敵陣に向かったポケモンは手に持った爆弾を爆破させ、自らを犠牲にすると共に人間を大量に殺した。更には、巨大なポケモンが破壊光線を連発して辺りを火の海にしたり、地面タイプが地割れを起こして戦場をしっちゃかめっちゃかにしていた。
 軍人が次々と死んでいった。ポケモンもたくさん犠牲になっていた。かなり悲惨な映画だった。途中グロテスクなシーンもあった。反戦を訴えている映画らしく、最後には主人公が「このようなことは絶対に繰り返してはならない」みたいなことを言って幕を閉じた。
かなり後味の悪い映画を観終えた後は、ファーストフード店で昼ごはんを食べながら二人で話をした。
「さっきの映画酷かったよねー。ポケモンを戦争に使うなんて」
「酷かったね、本当に。戦争でポケモンが使われるなんて可哀想だよね。人間はなんて自己中なんだろう」
 二人は先程の映画の感想を言い合った。そんなときである。少年はあることを閃いたのだ。
 今が、チャンスだ。告白するなら、今しかない。
 自分の胸の内に曝け出す。何一つ包み隠すことなく話す。それをするのは、このタイミングが限りなく丁度良い。神様がくれたチャンスだ。
 ポケモンを戦わせることの、是非。それを語るには、戦争という場でポケモンを戦わせた映画を観た後だと、丁度良い。かなりスムーズに話しを繋げられる。もちろん、戦争で戦わせるのとスポーツで戦わせるのは若干本質がずれるが、とにかく話題に出しやすければ良いのだ。
「あのさあ、ちょっと良いかな」
「ん?」
 彼は緊張で声が震えていたが、そんな自分の震えを確認してもなお、立ち止まりはしなかった。ここまできたら後はもう勢いしかない。突っ走るしかない。
 今こそ、覚醒のときだ。
「ポケモンを戦争で戦わせるのも酷いと思う。でも、ポケモンをバトルで戦わせるのも、十分酷いと思うんだ」
「え……」
「ポケモンバトル部の活動ずっと観ていたから、意外だと感じるかもしれない。でも自分は、本当はポケモンを戦わせるのって残酷だと思うんだ」
「……」
「ポケモンって、人間の都合でバトルして、怪我とかする訳じゃん。痛い思いもするじゃん。しかも特にこれと言った目的もなく、ただ娯楽として戦わせるのって、あれだよね。やっぱりあれだよ。ポケモンが戦わされていると……」
――駄目だ、うまく言葉が出てこない。
 中途半端な所で止まってしまったことが、彼の焦りを加速させる。分からない。自分の感情を言葉にできない。いかに表現したら良いのか検討すら付かない。昨日までに話す内容を紙とかに纏めておかなかった自分を悔やんだ。
 どうして言葉が出てこないのか。何か、自分の中で必死に堰き止めている者がいる。言葉に出すなと喉を塞いでいる何者かが自分の中に潜んでいる。それは恐怖心か。はたまた恥ずかしさか。分からない。でもたぶん両方なのだろう。
「ポケモンが戦わされていると、何……」
「あ、いや、あの……」
 一旦勢いを失うともう駄目だ。少年のちっぽけな勇気は、跡形もなく消えてしまった。ここで言う勇気とは、強い者に立ち向かうことではない。自分の弱さと向き合うことでもない。もっと下らないことで、もっとぐちゃぐちゃしたことだ。
 勇気を失った変わりに芽生えてきたものは、「もう言わなくてもいいや」という虚無的な感情であった。心の内を彼女に告白して、何になるというのだろう。そもそもこんな話しなんか、別に聞きたくないだろう。駄目な自分を正当化したいという思いが、そんな感情を生み出した。
 

 家に帰った少年はすぐに布団を頭に被る。足でドンドンと床を鳴らす。後悔、後悔。ただ、ひたすら後悔した。あの後の気まずい雰囲気。自分の挙動の鈍さ。話題を変更したときの無理矢理さ。思い出す度に息を荒くした。自分の今の状態を表すならまさしく戦闘不能だ、なんてヘンテコな冗談を考えて気を紛らわそうとしたが、無駄だった。すぐに自分の不甲斐なさを思い出してしまい、彼は何度でも頭を抱える。
 少年は嘆いた。強く嘆いた。ああこれが思春期か、なんて自分を客観的に視る余裕などなかった。ついには泣きそうにまでなった。母親から夜ご飯のお知らせが来ても無視をした。
 悩むことはただ一つ。
 嘆くこともただ一つ。
 結局自分は、気に入っていたあの子にすら、本心を打ち明けることができなかった。自分の気持ちをうまく説明できずに敗北した。日常の平穏を打ち砕けず終わってしまった。
 せっかくのチャンスだったのに。これからの人生でもう二度とやって来ないかもしれないチャンスだったのに。
 自分はあのときと何一つ変わっていない。道徳の授業が終わった後に先生に言えなかった時と、まるで一緒じゃないか。
 これでは自分は駄目なのだ。選ばれることの恍惚と不安。自分は確かに選ばれた訳だけど、このまま他者に話すことがないままでは、意味がない。もはや『不安』の方しか進呈されないで終わってしまう。この苦悩を抱いていても何も良いことを得られずに、ひたすら不安にかられたまま、自分は死んでいくのだろうか。
 夜中になっても、彼の自己嫌悪は留まることを知らなかった。この日今までの人生で一番懊悩とした。


 少年はこの日、奇妙な夢をみた。
 少年は小学一年生のときに戻っていて、自転車に乗っていた。買って貰ったばかりのピカピカの自転車だった。前には友達がいて、同じく自転車で走っていた。
 少年が通っていた小学校では、学区という範囲を越えた先には親と一緒でないと行ってはいけないというルールがあった。しかしそのルールを律儀に守っている人なんて、殆どいなかった。少年は律儀に守っていたが、あるとき友達に誘われ学区外に出た。
 これはそのときの光景だった。
 友達は自転車にとても慣れており、どんどんスピードを上げていった。少年はついていくのが大変だった。そして早くも、少年は友達とはぐれてしまった。
 一度自転車を漕ぐのを止めて、あたりを見回す。ここはいったいどこ。母親と一緒にいったことすらないスーパーがある。マンホールには「××おすい」と書かれている。××の部分には、知らない地域の名前があった。
 ここまでひたすら友達を追跡していただけなので、帰り道なんか分からない、携帯電話は持っていないから、友達と連絡も取れない。 そもそも番号が分からない。公衆電話を発見したので親と連絡は一応とることはできるけれど、確実に怒られる。
 少年は一度取り出したテレホンカードをすぐに財布にしまった。仕方がない。少年は通ってきた道をなんとか思い出しながら帰ることを試みた。友達には家に帰ってから連絡しよう。
 だが案の定、少年は全く違う方向へと向かってしまっていた。彼は根っからの方向音痴で、道なんか全然覚えていない。しまいには通ってきた道からどんどん遠ざかる方を選んで、突っ走ってしまった。
 そしてやがて少年は、あそこに足を踏み入れた。
 そこは、草むらだった。草むら……そう、野生のポケモンがひしめく、危険極まりない場所である。 
 少年はポケモンを持っていない。ポケモンを持たずに草むらに入ることは、大人でも危ない行為だ。町にもちょこちょこ野生のポケモンはいるが、全然状況が違う。草むらはポケモンだらけだし、周囲に人間はいない。
 少年は野生のコラッタと目が合った。コラッタは、歯をカチカチと鳴らしていた。更には彼の真上ではポッポやオニスズメが飛んでいた。草むらの奥の方には、毒を持ったポケモンまで潜んでいた。
ここに暮らすポケモンは、小さいポケモンばかりだった。だがそれでも人間にとっては十分脅威になりえる。それがポケモンという存在だった。
 少年はUターンし、今まで出したことのないスピードで自転車をこいだ。一刻も早く草むらから脱出すべきだと悟った。一瞬だけ振り返る。後ろから一匹のコラッタが追いかけてきていた。彼は更に早く自転車を飛ばす。なんとか草むらから脱出することに成功した。だが自転車の勢いは止まらない。そのまま電信柱に衝突した。彼は自転車から投げ飛ばされた。コンクリートに体を叩きつけられ、あまりの痛みに思いっきり泣いて、テレホンカードを使うことを決意した。
 こんな思い出が少年にはあった。しかしここは現実ではなく、中学一年生となった少年が見ている夢の中。当然史実はそのままなぞらない。
 夢の中での少年は、野生のポケモンに全く臆することはなかった。Uターンなどせず、そのまま草むらを突っ走っていった。草むらで生き生きと暮らす幾多のポケモン達に見とれながら。ただひたすら、この先はどうなっているのだろう、どんなポケモンがいるのだろう、という己の好奇心に従って先へと進んでいた。野生のポケモン達は、不思議と全く襲ってこなかった。
 先へ進むに連れて、どんどん自分の『世界』が広がっていく感覚を肌で感じた。自分が学区内という狭い『世界』にいたことをまじまじと実感した。歩いても歩いても、『世界』はどこまでも広がっていた。好きな食べ物を食べても食べても運ばれてくるような。好きな本を読んでも読んでもページがまだ余っているような、そんな感覚だった。
 しかし何の前触れもなくふいに、草むらは途切れた。
 草むらが途切れたら次は町かと思いきや、そうではなかった。ただひたすら先には、眩い光が広がっていた。他には何も見えなかった。
 中学生となった今でさえも、そこから先へ進むことはできなかった。なんとかして手で光を振り払おうとしたけどれも、無駄であった。光の牢屋からは全く、解放される気配はない。
 そこで少年は、ようやく目を覚ます。現実の世界へと帰還する。
 目をこすりながら時計を見る。もう遅刻ギリギリだった。彼は慌てて制服に着替え始めた。


 昨日を堺にして、あの少女とは一切遊ばなくなってしまった。会えば気まずくなるから少年はどうしても嫌だった。学校の廊下ですれ違うときは目線を下に向けた。
 結局、あの子がなぜ自分に話しかけてきたのか、理由が分からずじまいだった。
 中学を卒業した後は別々の高校に進学した。もう二度と会うことも話すこともないんだろう。そう、思っていた。




三.
 彼は高校生になった。入学した高校は家から少し遠い都会に存在した。そこは都内でも非常にレベルの高い高校と評価されていた。電車による長い通学時間もあって勉強は大変だったが、彼はなんとか乗り越えられた。この高校の中でもなお良い成績を収めることができていた。
 バリバリの進学校であるがゆえに、この高校にはポケモンバトル部なんてものは存在しなかった。ポケモントレーナー出身の人も殆どいない。そもそも、幼い頃にポケモンと触れ合った経験があるのか、という人達ばかりが集っていた。
 彼は高校になってついに、ポケモンという概念自体が傍らにない生活を送ることになった。学校ではひたすら勉強し、電車の中では休みなく単語帳を開いた。毎日ではないが予備校にも通った。息抜きもしっかりやるべく、休日は友達とボーリングやカラオケに行ったりもした。帰りの電車を待っている間コンビニに立ち寄りホットスナックを買って、食べながら友達と駅のホームで予備校の愚痴を言い合った。よく学びよく遊び、よく適当に生きた。それなりに充実した日々を送っていた。
 彼は中学のときに欲しがっていたパソコンを、高校になってようやく手に入れた。今やパソコンを触っていない現代っ子が珍しくなった時代だ。にも関わらず彼の家にはそれが一台も置かれていなかった。更には携帯もパケ放題ではなかったため、ネットの世界を覗くことは殆どなかった。
 彼は高校になって初めてインターネットの世界に本格的に触れた。知りたいことを検索窓に入れれば、大量に情報が出てくる素晴らしさを体感した。
 もはやこの『世界』からは、完全にポケモンという概念は消え去った。
 高校のある都会の町にだって、ポケモンを連れて歩いている人はいくらでもいた。自宅付近では、野生のポケモンが普通に交差点を渡っていた。
 だが彼は、それらを殆ど視界に入れずに道を歩いた。時折視界に入っても、際立って何かを感じることはなかった。それはつまり、この世界からポケモンが存在を消失したのと同じことだ。
 ここまでポケモンと関わらない日々を送っていると、もう小学、中学と抱いていたあの忌々しい悩みなんて、もはや完全にどうでもよくなっていた。強がりなどではなく、本当にどうでもよくなった。ポケモンを戦わせることの是非とか、戦っているポケモンの気持ちとか、なぜあんなに必死になって考え、時には自分を責めることまでし、貴重な時間を無駄に費やしていたんだろうって、昔の自分に心底呆れた。
 もう、ポケモンバトルに対する嫌悪感からもそして、選ばれることの恍惚と不安からも、完全に解放されて自由になったのだ。
と、彼は自分で思っていた。
 ところが……。
 やはり、そう簡単ではなかった。昔から抱いていた酸性の強い感情は、そう容易く封印できるはずもなかった。それができるなら、人は悩まない。自己嫌悪も抱かないし、鬱にもならない。
高校になった彼は再び、その感情に苦しめられた。突然にして、苦しめられた。
 そうなった『トリガー』は、実に意外なものだった。


 それは高校一年の夏の、ある日のできごと。
 その日は、世界史の授業が一限目にあった。現在、「ペルガモン王国」について学んでいた。試験に出やすい範囲だと先生が繰り返し唱えていたのもあって、教室はいつも以上に静寂に包まれていた。 指し棒を持った教員の声が響き渡る。黒板に書かれた文字を生徒達はノートに写していく。世界史の授業の教員は実に黒板をカラフルに彩る。試験に出やすい単語は赤字で、雑学よりのマニアックな知識は青字で書かれている。
 そんないたって普通な日常。その言葉は、突如現われた。彼を呼び覚ますためにやってきた。
――瀕死のガリア人。
 言葉が体中を駆け巡る、という些か使い古された言い回しが、実によく今の状況に合致した。彼は授業中に叫んだり、頭をかきむしったりするのを懸命に堪えていた。しかし息はどんどん荒くなり、このままでは自分は破裂すると悟った彼は、手に持ったシャーペンで腕を突き刺して応急処置をとった。少しは落ちついたが、未だその言葉は体をゆっくり駆け巡っている。ついつい黒板に赤字で書かれた文字を再び見てしまう。彼の脳内に、黒板で書かれているよりも濃い赤字で、かつ厳格なフォントで表示された。だめだ、何も考えてはいけない。ここで過剰に動揺したら、「こんな言葉で動揺する程例の件を気にしている」自分の姿を、まじまじと見つめ続けることになる。
 おいおい駄目だ、それだけは止めろ。自分が、過去のビデオテープを勝手に持ち出して流そうとしている。もう一人の自分が必死にそれを喰い止めようとした。しかし、それだけは止めろという思いと反比例して、どんどんそのテープを流したいという思いが強まってきてしまった。
 まず思い出したのが、埃を被った辞書の、あの記述。
その後、ありとあらゆる思い出が一気に思い起こされていく。商店街。病院。デパートの屋上。カーテンの隙間。部活動。映画。そして、あの子との会話。
『瀕死』という単語から、彼はポケモンを連想した。
 こんな言葉のみで、彼はポケモンを思い出した。あのとき抱いていた感情を、掘り返すハメになった。
 瀕死のガリア人は、アッタロス1世が小アジアに住むガリア人達に戦争で勝ったことを記念して造られた彫刻である。その彫刻は一人の男(ガリア人)が倒れている、というもので、若干分かりにくいが、男は瀕死状態になっている。もちろん「戦う元気がない状態」の方の瀕死ではない。正真正銘、死にそうな状態だ。
 やがて彼は、あるものを妄想していた。瀕死のガリア人のポーズで倒れているポケモンの姿である。こんなものまで妄想するようになったら、もう手遅れだ。彼は自分で認める他はない。
 瀕死のガリア人。これが、かつて彼を苦しめた感情を呼び覚ます『トリガー』だった。


 授業が終わり学校から帰るとき、景色が一変しているのを感じた。市内にはポケモンが至る所に存在していた。しかもそれぞれが存在感を放っていた。
 改めて彼は、呼び覚まされたことを実感した。
 そして、家の近くまで辿り着いたとき、駐車場近くの雑草の中に、彼はあるものを見つけたのだ。
 それは傷だらけになって倒れているピカチュウの姿だった。ピカチュウはいわゆる瀕死状態になっていった。
 彼は、昨日までよりポケモンが目につくようになった。そして瀕死状態で倒れているポケモンには、更に注目してしまうようになってしまった。全部瀕死のガリア人のせいだ。
 ピカチュウが野生であることは一目瞭然として、なぜこんな所で倒れているのか。誰かが経験値目当てで倒したのか。ゲットしようと思ったら間違えて倒してしまったのか。他の野生のポケモンにやられたのか。車に轢かれたのか。色々な理由が考えられるが、人間がポケモンバトルを強いた結果こうなった可能性も十分ある。
 彼は間近にあるコンビニへと駆け寄り、あるものを買って店を出た。
 そして、倒れているピカチュウにゆっくりと近づいていった。どうやらピカチュウは意識がない。これやら、やりやすそうではあった。
「こういうことって、別にやっても良いんだよね」
 誰かに確認をするかの如く、そう呟いた。
 コンビニで購入した傷薬を、倒れているピカチュウに塗った。上手く塗れているのか分からないが、とりあえず傷口全部に塗った。塗りすぎた分はポケットティッシュで拭き取った。毛に付いていたドロが、少し指に付着した。 
 そのときにピカチュウが目を覚ましてしまった。彼は慌てて眼の前の危険生物と距離を取った。ピカチュウは明らかにこっちを警戒していて、頬袋から電気を放出しかけている。彼はすぐにその場から立ち去った。
 結局あのピカチュウは、少しは回復したのだろうか。中途半端な優しさを向けてしまったか。少々無責任だったかもしれない。そんなことを心配しながら、彼は駆けていく。


 家に帰って制服を脱ぎもせずに、しばらくの間リビングのソファーにすわってボーっとしていた。
 シャツに染み付いた汗が除々に鬱陶しくなっていく。とりあえず上だけも脱ごうと思い始めた、その瞬間のことであった。ふいに彼は思いついたのである。
――あれについてインターネットで調べたら、何が出てくるのだろう。
 あれとは、そう。ポケモンバトルが、残酷かどうか。
 その件について彼は今日まで誰にも相談することはなかった。後少しで相談できる所まで行ったことはあるが。
 本で調べようとしたことはあった。だが図書館でいくら探しても、その件について書かれた書籍はなかった。本屋を見て回っても同じことだった。
 しかし、その件についてインターネットで検索したりしてみたら、一体どうなる。何か、出てくるのだろうか。
 パソコンを購入して一週間。ネット社会について、朧気ながら分かってきた。検索したら、何かが出てくる予感がしていた。
 自分の部屋へと向かう。パソコンの前に座り、恐る恐る、キーボードを叩いて文字を打ち込んでいく。購入してから一週間であるがゆえに、彼はタッチタイピングが全然できていない。ときおり配列表を見ながら、一文字ずつ人差し指で打っていく。途中少しじれったくもなった。
『ポケモンバトル 残酷』
 そういうふうにタイピングした。スペースは半角が良いのか全角が良いのかいつも迷う。今回は全角にしてみた。
 検索サイトの検索窓にその文字列が表示されていると、バックスペースを連打したい衝動に駆られた。もっとくしゃくしゃな字でディスプレイに表示されて欲しいと思った。読むのが困難なくらいに。検索しようとしている行為を覆い隠せるように。メールアドレスを取得したときの、あの文字認証みたいな感じが良い。
 彼は、エンターキーをしばらく押さなかった。数分の間葛藤した。一旦机から離れた。深呼吸を繰り返す。
 再び机の前に戻ってきたとき、ようやく彼は意を決した。どんな結果が表示されようと、川の流れは止まらないし、世界はちゃんと回っていく。何も起こらない。そう自分に言い聞かせた。
 エンターキーをそっと押した。データベースが裏で働いている、束の間の空白の時間。そして、検索結果が、あまりにも堂々と表示される。
 そこには……ああ!
 思わず彼は、ノートパソコンを一度閉じてしまう。スリープモードになるパソコンと呼応するかのように、再度深呼吸をして一旦冷静になろうとする。まるであのときのようだ。『瀕死』という単語を辞書で調べようとしていたときと同じで、中々踏み出せない自分に苛立ちも覚えてくる。
 再びパソコンを開く。
 そこにはまさに、彼が今まで思いつき、懊悩し、ときに悦に浸っていた思考が、紛れもなく表示されていたのである。
 しかも、彼が思っている以上に、克明に。
 彼のように縮こまったりせず堂々と、掲示板やブログといったものに、各々がそれについて書き込んでいた。どれもこれも、かなり具体的だった。そこには、躊躇や恐怖心といったものがないように思われた。いや、本当はあるのだ。あるのだけれども、それを乗り越えてきているのだ。
 中には半ば笑い話として、ポケモンバトルがいかに不条理かを語っているサイトもあった。笑いのネタにできるということは、この件について、何度も噛み砕いてきたということに他ならない。
 つまるところ、このインターネットの『世界』では、ポケモンバトルが残酷だ、可哀想だ、なんてことは、もはや飽きるほど繰り返し論じられてきたし、みんな読んでいた、ということのようであった。
 だが実社会ではそんなこと、絶対に口には出さない。
 彼は未だに現実を、受け入れることができていなかった。尖っていたと自負していたこの思想は、他にも抱いていた人が大勢いたのであった。
 ああ、今直ぐパソコンの電源を落として、ブレザーを脱ぎ捨ててネクタイも外して、靴も履かずに何も持たずに、家の外へと飛び出したい。どこでも良いから、なるべく大きめの山に登りたい。汗だくだくの状態で、息を切らしながら頂上まで到達したい。そして、町全体を見渡せるほどの崖の淵にでも立ちたい。欲を言えば、この世界全体までも一望したい。心地よい風が肌の上を駆けていって、雲一つ存在しないこれ以上ない快晴の中。何の問題点のない平和な世界に向かって、涙を飛ばしながら限りない大声で、こんなふうに叫びたい。




「なんで、みんな、黙っているんだよー!!!」




 ああ、そうか。
 数年の間、疑問に思っていたことが解決した。中学生のときに出会った、あの少女。
 彼女がなぜ、ポケモンバトル部の活動を遅くまで観ていたのか。なぜ自分に話しかけてきたのか。なぜあの映画を自分と一緒に観たのか。
 彼女と自分はなぜ、あんなに波長が合ったのか。
 全部、謎が解けた。
 あの子も、自分と同じような思想を抱いていたからだ。
 ポケモンを戦わせることが異常だと思っている人。それは一定数存在する。彼女はそのうちの一人だった。ただ、それだけのことだった。
 彼女は、自分の様子を伺っていた。
 なんとか自分から、言葉を引き出そうとしていた。ポケモンを戦争で戦わせる映画を観せることで、話題に出しやすくしていた。
 にも関わらず、自分は彼女の期待に応えられなかった。
 彼女もまた、自分と同じように、選ばれることの恍惚と不安と戦い続けていたのかもしれない。
 その気持ちと戦い続けている少年少女達は、その苦しみから逃れるべく、自分と同じ思想を抱いている人を見つける度に、磁石のように惹かれ合う。そしてなんとかして、「自分からは言い出しにくいこと」を、相手から言わせようと模索するのだ。自分と同じことを思っている、ということを明確にして、安心感を得たいのだ。
 少年は、いつの間か、あの場所にいた。
 野生のポケモンがひしめく、あの草むらの中。かつてこの場所は周囲が眩い光で埋め尽くされていた。しかし今はその光がない。周りが見渡せるようになっていた。
 少年は、今まで行けなかった場所をゆっくりと歩いて行く。
 やがて少年はあるものを見つける。
 一本の木が聳え立っていた。その下には、あの少女が微笑んで立っていた。少年が近づくと、「ありがとう」って小さく少女は言った。少年も笑って返した。
 今度こそ、自分の気持ちを伝えよう。怯えることなく、気まずくなることなんて考えずに。これは、禁断の告白ではない。多くの人が一度は抱いていたごく普通の感情の共有に過ぎない。
――さあ、『世界』を広げよう。
 彼女に対してだけではない。これで終わりではないのだ。これから自分は大勢の人に、この気持ちを打ち明けなくてはならない。
 選ばれることの恍惚と不安から、逃れるために。
 選ばれることの恍惚と不安から、誰かを逃してあげるために。




四.
 上昇気流を利用して高度を稼ぎ、キャモメの群れが青白い大空を、まるで自身らの自由度を誇るかのように飛び回っていた。野生のブルーが木の実を美味しそうに頬張っていた。エルレイドが土手で人間と一緒に居合い斬りを習得する練習を行っていた。ルナトーンが宙をふわふわ漂っていて、その様子を人間が見つつ絵を描いていた。メリープが飼育員の人に毛を駆られていた。チェリンボが喰われまいと天敵から必死に逃げていた。
 彼は現在、新幹線に乗っている所だった高校を卒業した彼はこれから、合格した大学へと向かっていた。
 彼は高校時代、インターネットに浸りすぎてしまっていた。そこに『世界』の真実があると盲信し続け、一日中あらゆることを検索していた。その結果成績は大きく落ちていった。ずっとトップクラスの成績を維持していたのに、あれよという間に下から数えた方が早くなってしまっていた。まずいと思った彼はネットを止めて、猛勉強を開始した。なんとか持ち直した結果、そこそこの大学へと入学することができた。
 さすがに、その『世界』には真実しかないと盲信するのはまずかった。彼は『世界』が広くなっていくと同時に、『世界』が狭くなっていった。その『世界』には偽りや詭弁や虚勢も多い。彼はそれらに幾度も騙され続けていた。
 代償は大きかったが、ともあれ、彼はこの『世界』の裏側を確かに感じることができた。
 幼いときの視線からは、決して見ることのできなかった『世界』。闇に隠された部分。
 人々は、表立ってはポケモンバトルが残酷であることは語らない。だが、心の中で思っている人は何人かいる。その内の何人かは、インターネット上で告白する。
 更には、告白する場はネットだけではなかった。そういうことについて纏めてある本は、いくつか出版されていた。ただし、図書館や一般の本屋には決して並べられることはない。少し地下に潜ったような場所にある本屋に存在した。
 また、殆どメディアは伝えることはないが、ポケモンを戦わせることの是非や、倒れたポケモンを『瀕死』と表現することの規制等について、日本の偉い人達による会議が頻繁に開かれていた。
 そして更に、日本ではなく海外には、とんでもないものが存在することを知った。
 イッシュ地方には、プラズマ団という組織があった。その組織はポケモンの解放を訴えていた。ポケモン戦わせることにも反対していた。
 アローラ地方では、エーテル財団という組織があった。その組織はトレーナーに傷つけられた野生のポケモンを保護していた。
 『世界』が広がっていく度に、彼は様々なことに気が付いた。
 考えてみたら、ポケモンバトルを親御さんに禁止にされている子がいたのだって、そういうことではないか。親がポケモンバトルを嫌っていたのかもしれない。
 なぜ人々は、自分のパートナーを戦わせるのか。それは結局、まだよく分からないままだった。だが『世界』を広げていくうちに、分かる日が来るのかもしれないし、来ないかもしれない。大学に通うようになったら、そういうサークルでも作ろうかとも考えた。さすがにそれは思い切りが良すぎるだろうか。踏ん切りが付くかどうか。自分と同じ考えの人を見つけたら、あの少女みたいに話かけてみようか。
 彼は、選ばれた人間ではなかった。彼が抱いていた感情は多くの人が抱いていた。インターネットに没入して成績が落ちるし、頭もちっとも良くなかった。
 だが、『世界』を広げることで、選ばれることの恍惚と不安から、逃れることはできた。
「あーあ、全部失っちゃったなあ」
 彼は溜息を付いて、そして笑った。