嵐の向こうに

ARASHI
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」
編集済み
<先生と僕>

  海岸沿いの堤防を登る。
そこには白シャツにボサボサ髪の日焼けした小汚いおじさんが、ここ2,3日胡座をかいて座り込みを決めている。
 黒い波の立ち始めた海の飛沫が、堤防に捲き上がり、白いコンクリを黒く濡らす。
 「うちにもどんなよ、おじさん。」
 「ああ。そうだな。」
 「ねえ……。」
 「君は先に戻っていたまえ、悠人君。」
 分厚い黒雲が昇り、冷たい風の吹き出す中、おじさんは生返事を繰り返すだけだ。
 嵐が来る。
 特大の台風だ。
いずれこの堤防を超える大波になる。
こんなひょろくて不健康そうなおじさんなんて、あっと声を出す間も無く海に流されてしまうだろう。
  「おじさんが死んじゃったら僕んとこが困るんだって。お客さん死なせちゃった民宿だってなったらうち潰れちゃう。」
 「そうはならないさ少年。私の部屋に帰って私の部屋の金庫を見てごらん、遺書がある。君たちは悪くないことと私が望んでこうしていることが書いてある。」
これだ、と言っておじさんは金庫の鍵を肩越しに寄越してくる。
 鍵は鈍色に不吉に揺れている。
 「そんな用意のいいの、やだ。つーか、僕が死なせちゃったことになっちゃうのが、やなんだって。」
 「もし仮にそうなったとしても、君が罪悪感に浸ることはない。私の選択だ。」
 「無理だって、ねえ、いい加減にして。帰ろうよお。」
これだけごねているのに、このくたびれたおじさんのどこにそんな意思があったのか、びくとも動かないもんだから、僕はとうとう涙目になる。
こんなに嵐が迫っている時に外にいたことはない。
きっとお父さんもお母さんも婆ちゃんも心配してる。
 安全な家とあったかいご飯が恋しい。
でも、ここでこのおじさんを見放して自分だけ助かる恐怖と、おじさんを助けても嵐が直撃して僕も死んでしまうかもしれない恐怖、どちらも選べなくて僕の足は竦んでしまった。
 刻一刻とその時は迫っている。

  「私はこの時を待っていたんだ。」
おじさんの傍らに置かれた小さなラジオからは、女性の声で台風の勢力の強さが淡々と語られている。

――過去最大級の勢力を維持したまま接近しており……
――避難勧告が出された地域は次の地域です……
――決して海には近づかないでください……
プツ、とラジオの電源が切られた。
 「なんのために私がこの島までやってきたと思う?」
 「け、研究のため?」
おじさんがどこかの大学の偉い博士だということは聞いていた。
 「そう言っていたが、本当は違うんだ。私は私個人の興味関心、望みのためにここに来た。この近くの海は温かく上昇気流が発生しやすい。それは嵐の卵だ。この大きな嵐はこの島を真っ先に通過する。だからここに来た。」
 荒れ狂う曇天を見つめるおじさんの眼差しには熱が光っていた。

  「嵐の子供――ルギアの誕生だよ、少年。」
 「ル、ギア?」
 「そうだ。私は見たいんだ。伝説のポケモン、海の神、嵐の化身、ルギアの誕生を。」
 「……。」
おじさんのギラギラとした眼差し。
なぜだろう。僕の嵐に対する恐怖は吹き払われ、熱い気持ちが湧き上がってきた。
この嵐の中に何かがある?何かが産まれる?
  「今、君の心に革命が起きている。」
おじさんの人差し指が僕の左胸を押した。
 魔法の杖のように、僕の胸に宿った何かを見透かす。
  「今、君の心を占めていた嵐に対する恐怖が消えていくに従って、嵐に対する興味が君の心を占めていく。冒険心だ。男なら誰でも失わずにおきたい熱情だ。」
 危険と引き換えに得る、未知との遭遇。
 不思議と、あんなに恐ろしかった嵐の音に僕の胸は高鳴り始めていた。
 嵐が来る。

  嵐が来る。

  「もし私が生きて帰れたら、色々と教えてあげよう。君はもうすぐ中学生だね?まだまだ勉強することも経験できることもたくさんある。」
 選択の時だと僕はわかった。
 波飛沫に顔を濡らした汚いおじさんが、沸騰しそうな眼差しで僕を見上げる。

  「君は、どうするかね?」


・・・・・・・・・・


 次の夏、僕はラジオの前で正座をしていた。
ある時を待っていた。
 電話の受話器を握りしめ、早鐘を打つ心臓をぐっとこらえながら耳を集中させる。
 『では、悠人君から、ルギアはどうやって産まれるんですか?という質問ですが、これは宮古先生をご指名ですね……。宮古先生、お願いします。』
 『はい。悠人君、こんにちは。』
 「先生。」
 待ちきれず僕は先生の言葉を遮った。
 「はい。」
 返ってきたのは淡々と短い返事だったが、先生がラジオの向こうで微笑んでいることが、手を取るようにわかった。
  「ルギアの誕生は見られましたか?」
 『いいえ、まだです。』
 「先生の仮説は正しいんですか?」
 『それを証明すべく、私はまたどこかの海へ行こうと思います。』
 「僕も連れて行ってください。」
 一般のリスナーからすると訳のわからないやりとりだろう。
それでいい。
 僕と先生だけにしか理解できない絆がここにある。

  『君はまだ小学生だったね。』
 「はい。でも、いっぱい勉強しました。テストも100点いっぱい取るようになりました。先生にも学校で一番だって言われてます。天気の勉強もしてます。台風を作るのは上昇気流なんでしょ?他にも色々わかります。」
 『素晴らしい。でも、まだまだ君が知らないことはたくさんある。中学校できっと、それを教えてくれる。』
 「でも先生、僕待てないんです。」
 『反比例。』
 突然の知らない単語に、僕の言葉は止まった。
 先生が笑う息遣いに、大人になったはずの僕は、急に子供に突き戻された気持ちになった。
 『かつての君だ。中学の数学で教えてくれるよ。まだまだ勉強することはたくさんある。』

  僕の気持ちは、未知に向かって動き出していた。
 目の前の冒険だけじゃない。
 未知はすぐ目の前にある。
 僕の行く先は決められるのだ。いつだってこの先生に。

  『私はいつまでも君を待とう。ルギアと一緒に。』

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 <お嬢様と私>

  ある嵐が近づくある日のことでした。
 奥様からお墓参り用のセイレイバナを言いつかった私は、お山の畑に花を切りに行きました。
あちこちのお墓を参らねばなりませんので、お花は両手に抱えるほど必要です。
 視界が遮られるほどのセイレイバナを抱え込んで帰路の山道を歩いていると、見慣れない男の方を見つけました。
  男の方は私を見止めると、棒のように長い背丈を腰で折りながらへこへこと困り笑顔でこちらにやってきました。
 「旅すがら、道に迷ったものです。お嬢さんはこの辺の子供でしょうか?」
 「ええ。このお山は私がお仕えするお屋敷の敷地内でございます。よければ出口までお送りいたします。」
 「それは、大変失礼しました。ご案内いただきましょう。」
 物腰柔らかに微笑む姿に、男が悪い人ではないことは分かりました。
 男は薄手の清潔なシャツを来て、登山用の大きなリュックに大きな肩掛け鞄と大きなイーゼルを持っていました。
どれもとても綺麗なものとは言えませんが、道具に愛着を持って大切に手入れされていることがわかる使い込まれ様を感じます。
 男は佐伯と名乗りました。

  「佐伯様は画家様でいらっしゃいますか?」
 「売れない画家をやっております。野生のポケモンの絵を描いております。」
 「ご謙遜がお上手ですね。」
 「身なり相応です。あなたはまだお若いのにお勤めとは、偉いものです。」
 「とんでもございません。それに、私これで2年後は成人でしてよ。お屋敷での生活をお勤めとは感じておりませんわ。毎日喜びに溢れております。」
 「素直でよくできた娘さんです。いい歳をしていて、夢追い放浪している私のようになられませんよう。」
 「まあ。」
 佐伯様は紳士的なお方でした。
 「では半分を。」と、断る私が妥協する線を見つけてセイレイバナを持ってくださりました。
 私の周りの男性は厳格な方ばかりでしたから、こんなにお優しい男性もいるものかと感心しました。

  そうこう歩いているうちに出口も近くなってまいりましたが、私はどうにも佐伯様の今後の旅が気になって何度もお屋敷に意識をやりました。
なにせ嵐が近いのです。
この辺は近くの高い山々のお陰でそれほど台風の被害は大きくない地域ですが、それでも強い雨風にこんな優男がどう過ごすのかと思うと気がかりでなりませんでした。
 私はなんとか佐伯様をお屋敷にお迎えすることを思索しておりました。
あれもだめこれもだめと考えあぐね、今まさにお屋敷の近くを通りかかろうというところでようやく閃きました。
  「佐伯様、もしよろしければお嬢様に会っていただけませんでしょうか?」
 「あなたのお仕えするお屋敷のお嬢様ですね。こんな薄汚い大人ですので、とてもとても……。」
 「お嬢様はお体が弱く、弱視でいらっしゃいます。ポケモンと触れ合う機会はほとんどございません。自然の世界のポケモンなどお目にかかることなどなかなかできないのです。佐伯様の絵を見て、その時のお話を聞けばきっと喜ばれるはずでございます。」
やはり身なりと身分が気になられるのか、乗り気でない佐伯様を、私は半ば強引な形でお屋敷にお連れしました。

  事情を奥様にお伝えすると、奥様は快く佐伯様をお屋敷に迎え入れられました。
また嵐が近いこともあり、嵐が過ぎるまで屋敷に入るようにと言われましたので、佐伯様は数日お屋敷で過ごされることに決まりました。
 作戦がトントン拍子でうまくいき、心の中で私は飛び上がりました。
お嬢様に会う前に風呂を借り、シャツを新調したいと言い出す佐伯様を、「このままが宜しいのです。」と私は無理矢理お嬢様のところに引っ張っていきます。
お嬢様は聡明なお方です。人を身なりではなく本質で見られます。
お嬢様の私室に行くと、お嬢様はいつものようにラジオを聞いておられました。
 南の海から接近している台風の速報が流れています。
  「おかえりなさい。あら、どなたかもう一人いらっしゃるのですね。」
お嬢様は視力が弱い代わりにとても耳が宜しいのです。
 「はい。佐伯様でございます。とてもお優しい男の画家様でいらっしゃいます。そこのお山で、旅の途中のところをお招きいたしました。」
 「まあ、絵を描かれるのですね。旅のお客様だなんて初めてです。」
お嬢様はぱっと花が咲いたような明るい声で襖を開けられました。
  お嬢様と私に急かされるままに、佐伯様はリュックから絵を何枚か取り出してくださいました。
 確かにとてもとても高額な値が付きそうな絵ではありませんでしたが、どれもポケモン達の生活の豊かさを切り取り、そこに佐伯様の優しさが色で表されたかような温かい色彩の絵ばかりでした。
 畳の上に広げると、そこはまるで一面春の花畑のような景色になりました。
お嬢様は、その絵を一枚一枚、隅から隅まで、絵に息がかかる程の距離でご覧になられました。
これほどの至近距離で、長時間絵を見られたことがないのか、佐伯様はどうにも気恥ずかしそうにしておられましたが、次第に慣れてきたのか嬉しそうに微笑んでおられました。
 用意していた水に手も付けず、時間をかけて一気に全ての絵をご覧になられると、お嬢様は大きく息をつかれ、ようやく一口水を飲まれました。
こんなにお嬢様が長時間何かに集中されていたのは初めてでしたので内心はらはらしながら見守っておりましたが、お嬢様は少し疲れを見せながらも満足気に頷かれました。

  「佐伯様、どれも素晴らしいという一言では失礼なくらいに良い絵でございました。この子のおっしゃる通り、あなたは温かいお人柄なのでしょうね。これは私の我儘なのですが、この屋敷に残って絵を描き続けてはくださいませんか。見ての通り私は病弱で目もほとんど見えず、外の世界を知りません。あなたが外に出られて、こうやって外の世界やポケモンの絵を描き、私に見せ、語ってくださるとどんなにいいかと思うのです。」
  それは横にいた私が赤面するほど、お嬢様より年上の私ですら口に出すことを躊躇うほど真っすぐな、ほとんどプロポーズのお言葉に聞こえました。
 佐伯様は一度驚き断れましたが、お嬢様が強く説得なさり、奥様やご主人様からも了承をとってしまわれるのでようやく頷かれました。
  「よろしくお世話になります。」
そう畳に頭をつけて深々とご主人様と奥様の前でご挨拶される佐伯様の姿を、私はとても誇らしい気持ちで見ておりました。
お嬢様が外の世界やポケモンを見ることができ、佐伯様も厳しい旅や飢えに苦しまなくて済む、なんと喜ばしいことでしょうか。

  こうして、佐伯様はご縁にご縁が重なり、お屋敷で画家として生活されることになりました。
 佐伯様は時々1週間から長ければ2週間ほど遠出し、野生のポケモン絵を沢山抱えてお屋敷に戻ってこられては、お嬢様に旅の様子を語られました。
お嬢様は時には身を乗り出し、時には目を閉じながら聞き、また隅々まで絵をご覧になられるのです。
お嬢様は絵にもご興味を持たれた様で、絵の具のことや絵の描き方について熱心に佐伯様から学ばれました。
お二人の距離は確実に縮まっており、私はそれを誇らしい気持ちで見ておりました。

  ですが、佐伯様がお屋敷に住まわれてからもうすぐ半年が経とうという頃にある事件が起きました。
 佐伯様がとても写実的な絵をお持ちになられたのです。
それは確かに佐伯様の絵のタッチで、それでいて格段に絵も上達されているのですから、私はハッと息を呑み、佐伯様の成長を感じ途端に嬉しくなりました。
しかし、佐伯様の絵をご覧になったお嬢様の様子は、絵の上達に反比例して沈んでおられました。
 私が佐伯様の表情を伺うと、佐伯様は緊張した面持ちでお嬢様を見つめておられました。
 「いつもと描き方を変えてみたのですが、いかがでしょうか。」
 「ええ、いつものように、素晴らしい絵ですわ。」
 「よりお嬢様にその時の情景を伝えやすいように、写実的に描いてみたのです。」
 「ええ、そのようでございます。」
 「ええ。佐伯様、格段にご上達成されたのですね。素晴らしいですわ。」
 沈み込む室内を明るくしようと私が声を上げると、お嬢様は一度微笑んでからまたいつものように絵をじっくりとご覧になり始めました。

・・・・・・・・・・

 佐伯様がお屋敷にいらしてから1年ほど経った頃でしょうか。
 私がお暇をいただいて少し遠くの町まで出かけた時のことです。
なぜか、旅に出ておられるはずの佐伯様が古本屋に入っていかれる姿を見つけ、私は気になって後をつけました。
 不思議と胸騒ぎがします。
どんな本を手に取っているのか見止め、私の胸騒ぎは失望に変わりました。
 佐伯様が手に取っておられたのは野生ポケモンの写真集でございました。
 必死になって一冊の写真集を吟味する姿は、まるで犯行の得物を選ぶ悪人のように映りました。
  時間をかけて一冊選び、購入されたところで、店の外で待ち構える私の存在に気付きました。
 佐伯様は顔を真っ青にされると、慌てて私を路地裏に引っ張り込み、土下座しました。
  お許しください、お許しください、と何度も地面に頭をこすりつけました。
  佐伯様が写実的な絵をお描きになるようになったのは、写真集を見ていたからでございました。
 当然でしょう。写真と実体験では、感動の差が違います。
 佐伯様は実体験の感動を表せない代わりに、写実性でごまかしておられたのです。
お嬢様はもしかしたら、これに気付かれていたのでしょう。
きっと、写実的な絵がいけないとも、何かを見て描くことが悪いとも思ってはおられないから、また、佐伯様のことも思うあまりに、強く咎めたりしないのでしょう。
ただ、佐伯様があたかも自分が見てきた光景のように振る舞われることを悲しんでいたのでしょう。
そして、佐伯様は、お屋敷の生活にすがるあまりに、効率よく、沢山絵を描くことに走ってしまったのでしょう。
  「出て行きます。」
 何も言い返せない私に、佐伯様は一言告げると、とぼとぼと一人で去っていかれました。

・・・・・・・・・・

 お屋敷に帰ると、お嬢様が私を私室に呼ばれました。
 部屋にはラジオが流れておりました。
お嬢様が黙ってそれを聞いておられましたので、私もラジオに耳を傾けると、子供の息巻く声が聞こえます。
 小学生の男の子と、宮古先生という大学教授のやりとりのようです。
 『ルギアの誕生は見られましたか?』
 『いいえ、まだです。』
 『先生の仮説は正しいんですか?』
 『それを証明すべく、私はまたどこかの海へ行こうと思います。』
 『僕も連れて行ってください。』

  「……ルギアの誕生ですか……。私も見てみたいものです。」
そうぽつりと言葉を零すと、お嬢様はラジオを切られました。
 「お話があります。」
 凛としたお声に、お嬢様は佐伯様から全てを打ち明けられたことに気付きました。
 「はい。」
 「私、ルギアが見たいのです。」
お嬢様の言葉に、私の頭の時間が一瞬止まりました。
 拍子抜けとはこのことを言うのでしょう。
お嬢様は微笑みを私は驚いた顔で見返すことしかできませんでした。
  「佐伯様に描いてきてもらいたいのです。」
 途端にお嬢様の言葉が残酷な処罰の命に聞こえました。
 大学教授ですら、ルギアの誕生を見ていないのです。
そもそもルギアなんて伝説の存在は、探しても見つかるものかもわかりません。
 「それは、佐伯様にもう帰ってくるなとおっしゃられるのでしょうか。」
 取り乱すのを必死に抑え込みましたが、私の声はたまらず震えてしまいました。
  「美樹、あなたも行くのです。」
 鈍器で頭を殴られたかのような衝撃でした。
しかし当然でした。佐伯様を連れてきたのはこの私です。
 失念でした。私にも処分が下ることは当然でした。
 私は屋敷を追い出されるのです。
 泣きそうなのを震えながらこらえていると、お嬢様がそっと私の肩を抱きました。
 「勘違いしないで美樹。違うのよ、あなたが佐伯様をお支えするのです。」
 顔を上げるとお嬢様は優しく私に笑いかけました。
 「あなたが佐伯様をお慕いしていることには、気付いていました。」

  なんて、私は残酷な女なのでしょう。
 今すぐこの場から存在ごと消えてなくなりたい衝動に襲われます。
やはり、お嬢様には見透かされていました。
 佐伯様を屋敷にお連れしたのも、お嬢様に紹介したのも、全ては佐伯様に惹かれた私のためでした。
  「違います。お嬢様。私は佐伯様とお嬢様が結ばれたとしても、決して、決して……。」
 「わかっています。しかし、美樹、あなたでなければならないのです。私ではあの方を駄目にしてしまうようです。あのお優しい方を歪めてしまったのは財産のせいでしょう、安寧のせいでしょう。私があの方と結ばれてしまったら、あの方は堕落してしまいます。自分に嘘をつき続けてしまいます。」

  お許しください。お嬢様。私はずるい女です。
お嬢様と佐伯様が仲睦まじくされていることも、全て私のお陰だと高をくくっていたのです。
そうして優越感に浸っていたのです。
ですが、お二人のご関係が羨ましくあっても、佐伯様に手を出そうという気持ちは、これっぽっちもありませんでした。

  「美樹、あなたが佐伯様をお導きするのですよ。ルギアを見せてあげて。そしたらきっとあの方は何かを取り戻す、そんな気がするのです。私は、あなたと佐伯様が並んでいる方がお似合いだと思うわ。それに、もうすぐ成人を迎えるあなたを、ここに一生縛り付けておきたくないのです。お願いよ、美樹。」
 留めきれずに溢れる熱い涙を、お嬢様はそっと拭いてくださいました。
 「お許しください。お嬢様。」
 「いやよ。美樹。私とあなたの仲じゃない。それに、追い出すなんて言ってないわ。」
 小さくか細いお体のどこにそんな力があったのでしょう。
 強く強く、お嬢様は私を抱きしめてくださいました。

  「必ずルギアを見つけて、帰ってくるのですよ。」

・・・・・・・・・・

 大荷物を抱え、私と佐伯様はお屋敷の門の外に立っていました。
 佐伯様は、茫然と魂の抜かれた人形のように立っています。
 安寧を失い、一からやり直さなければならなくなった男の情けない姿です。

  空は晴れ渡った青空です。
ですが胸に抱える不安は晴れません。
 私は本当にこの方をお支えできるのでしょうか。
この方の心を取り戻すことができるのでしょうか。
ルギアを見つけ、またここに帰ってくることはできるのでしょうか。
 私たちを取り巻く空気は、まるで晴れ間の見えない嵐の中のようです。

  未来も行先も、今はわかりません。
ですがこの嵐を超えた先に答えはあるはずと信じ、進むのです。