未確認飛行

冥王星はどこですか
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」
編集済み
「……向こう一週間の天気予報です。本日、八月九日は高気圧の影響により、一日中良い天気が続きますが、湿った空気の影響で十日夜から十一日にかけて雨が降るところがあるでしょう。十二日から十三日にかけては一時的に高気圧に覆われて晴れとなる予報ですが、十四日以降は前線の影響で再び雨となるでしょう。十二日夜のアルセウス座流星群は晴れた空の元で見られそうです……」
 淡々と天気予報を読み上げるカーラジオをドニさんは微笑んで聞き、青信号の点る交差点へ向けてぐっとアクセルを踏む。
 眠っていたらしき助手席の相棒が気怠げにシートから身を起こし、ばかでかいサングラス越しにドニさんを睨むので、ドニさんは彼女の気に入りそうなものをフロントガラスの枠の中に素早く見つけ、指差してやる。子どもたちだ。自転車に乗りかかったまま、信号を渡るのも忘れて、ドニさんの走らせる大型トラックに目を輝かせてはしゃいでいる。相棒がぎこちなく手を振ると、子どもたちは一層息を弾ませて手を振り返した。

 ドニさんのトラックは一目見れば誰もが忘れない。人もポケモンも、ドニさんのトラックを見ると、自分のいる場所がどこなのか、つかの間忘れてしまったような顔をして、その外装に釘付けになる。
 車体は一面が黒。荷台も黒で塗られているが、人々の目を惹きつけるのはそこに描かれたものだ。まず歩道側の面、運転席のほど近くに、明明と燃える大きなまるいものが描かれてある。まるいものはその一部しか描かれていないが、その雄大なカーブに添って白や黄色、オレンジが複雑に混じり合った炎を黒い荷台に噴き上げている様子を見れば、誰もがその正体に気づくだろう。これは太陽なのだ。
 とすれば、そのほど近くに描かれた銀色の小さな球も、プラチナのような気品漂う色で描かれた球も、目にした人の頭の中には自ずと名前が浮かんでくる。水星、金星。
 そして、人々はトラックの荷台のやや後ろ側に描かれたその星を、青と白と緑が美しく入り交じるその星を、まるで遠く離れた故郷にたった今帰ってきたかのような喜びで見上げ、それぞれの相棒たちにその名を囁きかけてやる。地球だよ、あれは地球なんだよ、と。
 最後尾にひっそり浮かぶ赤茶けた火星の下あたりには、こう書かれてある。
「宇宙、お届けします――ドニの移動プラネタリウム」

 車線側に描かれた星々は、助手席から順に見ていくと、だんだん遠ざかっていくように見える。やはりその一部だけが描かれた、激しい炎の代わりにその表面に雄大な渦を巻く木星。やや遠巻きに描かれた、外の風景に向けて小さくお辞儀をするように輪を傾けた土星。それら二つの大きな星からはるか彼方にあるように、天王星と海王星、小さなまるい二つの青みがかった星が浮かび、そこから先は箱いっぱいの果てしない黒だ。下の方には、流れ星の軌跡のような書体で、やはり「宇宙、お届けします」の文字がある。

☆☆☆

 ドニさんが移動プラネタリウムを始めたのは三十歳の頃からだ。今年でもう四年になる。
 出身はヒウンシティ。カントーから海を渡って来た父も、フキヨセシティ出身の母も、ポケモンにはほぼ縁がなく、人にまみれて高層ビルとマンションを行き来する生活を送っていた。好物のマトマソースのかかったトーストをかじりながら、ドニさんは自然と自分もそうなるものだと思って育った。
 順調に学歴を重ね、トレーナー用の衣服を扱う商社に就職したドニさんは、本当に両親そっくりの生活を三年続けた後の夏季休暇中、突然リゾートデザートに車を出した。荷物は免許証と冷蔵庫にあった飲みかけのコーラのみ。そうした理由はドニさん自身、今でも分からない。けれど、この出来事がドニさんを決定的に変えたのは間違いない事実だ。
 石ころだらけの砂漠の真ん中で寝転がり、光る砂をばらまいたように星が輝く夜空を見上げながらドニさんは思った。
(ああ、俺は高層ビルを一階ずつ登っていくような人生を送ってきたが、これまでなんて低くて狭いとこにいたんだろうなぁ)
 その時、地べたに大の字に寝転がってダアダア泣いていた妙な人間の顔を訝しげに覗き込んできたのが、今のドニさんの相棒、まだほんのゴチムだった、今は立派なゴチルゼルのルカである。
 彼女と共に砂漠から帰ってきたドニさんの生活はその日からがらりと変わった。一人暮らしのアパートとビルの往復の合間に、あちこちの本屋へ顔を出すようになった。殺風景なドニさんの部屋に初めて本棚が置かれ、天文学の本が並んだ。ドニさんの知らない単位や式が出てくる度に物理学の本が増え、教育関係、スピーチの仕方、果ては子供向けの宇宙の本までぎゅう詰めになり、本棚に入り切らないものはベッド脇に積まれるようになった。その傍らでドニさんは大人向けのトレーナースクールにも通ったため、ゴチムのルカのための遊び道具――浮かせて遊ぶ玉や手を使わずに解く知恵の輪など――や、ポケモンフーズやお菓子の袋なども部屋を賑わすようになった。そんな部屋にドニさんが最後に持ち込んだのは、プラネタリウムの求人広告ではなく、大型免許資格の参考書だった。
 商社で稼いだ資金をトラックやら機材やらにつぎ込み、仕事を辞めてヒウンシティの外へ走り出して四年。アパートの部屋は引き払い、山のような本はお気に入りの数冊を残してヒウンの図書館に寄付してしまった。「ドニ」という名は本名ではなく、自分で付けたものである。父親の「ドイ」というラストネームを上手く発音できない友人が多かったのだ。
 スキンヘッドに丸々とした体、好きなバンドのロゴがでかでかと描かれたライブTシャツを着て太陽系を乗りこなすドニさんは、今の自分をとても気に入っている。

 ドニさんのトラックはあまりスピードを出さない。隣の車線を色とりどりの車が追い越していく時、相棒に言うのはいつもこの台詞だ。
「しょうがないさ、ルカ。あっちには人とポケモンしか乗ってない。こっちは人とポケモン、それに宇宙をまるごと乗せて走ってるんだ」
 相棒は聞き慣れたその台詞を、優雅な見た目に見合わぬ大あくびで聞き流す。ゴチルゼルである彼女にとって昼の光は少々きつすぎるようで、昼のドライブの時は必ずサングラスをかけている。人間用のそれとは違ってかなり無骨な見た目の、言ってしまえば黒い半透明の下敷きのようにしか見えないそれを彼女はとても気に入っている。
 大抵は大人しく眠っているか、カーラジオをじっと聞いているかなのだが、今の彼女は文字通りのくろいまなざしを忙しなく動かし、左右のサイドガラス、フロントガラス、果ては体を捻って荷台のある後方までも、待ちきれないと言った様子でそわそわ見つめている。
 運転席から後ろを振り返ったところで(運転中なのでどの道無理なのだが)ドニさんの目には無愛想な壁しか映らないけれども、「おみとおし」の特性を持つルカにはきっと、荷台に積まれてある数々の「宇宙」を構成するための要素――テントや投影機、操作盤と一体化した机、子供達に配るお土産のメテノキャンディの色までもがはっきりと見えているのだろう。無論、ルカが使うための大小様々の「星」たちも。彼女はそれを子供達に見せるのを大層楽しみにしているはずだ。こんなにきょろきょろと忙しなくしていれば、言葉が通じなくたって分かる。
「あと一時間弱ってとこだ、ルカ。だんだん目的地が近づいてくるのを楽しんどけよ」
 宇宙色のトラックは相変わらずのスピードだが、ドニさんだってその日の目的地に着くのが楽しみでたまらないのだ。

 ドニさんは頼まれればどこへだってトラックを走らせる。必要なのはトラックの駐車場と、直径七メートルのドーム型プラネタリウムを置くスペースだけだ。
 今回上映を行うのはサンギタウンの町役場の前だった。駐車場にトラックを停めると、降りて役場へ挨拶に行くドニさん達と入れ替わるようにして、子どもたちがわっとトラックの周りに集まってくる。ドニさんが電気式ファンでドームを膨らませ、ルカが念力で機材を慎重に運び込む間も、子どもたちはトラックの側でそれらの作業を熱心に見つめている。賑やかな話し声や歓声が聞こえると、ドニさんは投影を始める前から星々に囲まれているような気分になる。無論、宇宙で音は聞こえないことをドニさんは知っているが、彼は未だに、星はみな、暗い宇宙の中で、こんな風に弾けるような音を立てて燃えているのだと半ば信じている。

☆☆☆

「こんにちは、今日は来てくれてありがとう。僕は宇宙人のドニです」
 ドニさんの投影はこんな口上で始まる。変に声を作ったりはしないが、敷物とゴム製のドームで囲われた半円の空間には、この一言でいつも小さな波のような笑い声が広がる。その時のお客さんの笑顔を見るのがドニさんは大好きだ。
 今日の観客はほとんどが十代前半くらいまでの子どもで、赤ん坊を連れた両親が小さな笑みを交わしあいながら入ってきたり、何やらわけあり気味の年長トレーナーが一人でふらりと入ってきたりもした。安全な上映のためにポケモンをモンスターボールにしまってさえ貰えば、ドニさんはすべての人をドームの中に受け入れる。本物の空のように。
「僕の住んでいる星のことを、まずお話したいと思います」
 この口上と共に、直径七メートルのドームは暗くなり、その真ん中に、初めての光が灯る。バレーボールほどの大きさの、白とオレンジを混ぜたようなまるい光が、投影機や座っている子どもたちの手には決して届かず、天井に当たりもしない、ちょうどいい高さから子どもたちの驚きに満ちた顔を照らす。
 これはルカの「フラッシュ」で造り上げた太陽だ。ドームの入口付近に黙ってしゃがみこんでいる彼女の真っ黒な容姿は、プラネタリウムの中ではほとんど目立たない。種族元来の性質に加え、暇さえあればドニさんの部屋の本をめくっていたため、天体の動きなどもまさに手に取るように熟知している。そんな彼女はドニさんの最高のパートナーだった。
 フラッシュ製の太陽は万が一子どもが触っても害はなく、目に悪くない程度に明るさを調整してある。観客が見惚れている間にルカは素早く残り八つの惑星を念力で浮かべ、太陽系の形をプラネタリウム内に作り上げる。こちらは科学玩具の粘土で作ったものだが、モデルの惑星に合わせて少し大きさを調整してある。
「僕の住んでいる星は、七つの星の兄弟たちと一緒に、大きな大きな光る星の周りを回っています。他の星には生き物がいるかどうか、まだ分かりません。僕の星より内側の星は太陽に近すぎて、僕の星より外側の星は太陽から遠すぎるのです」
 ドニさんの語りはドームに反響して、本当に宇宙から響いてくるようだ。ぼうっと見上げる観客の上で、色とりどりの星が回る。
「この回っている星達の中で、僕や僕の仲間の宇宙人たちが住んでいるのは、僕の星だけ。ちょうどいい水があって、ちょうどいい空気があって、ちょうどいい地面がある、この地球という星だけです」
 ドニさんが一言一言、今身の回りにあるそれらを慈しむように話す隙に、ルカは太陽の光を暗くして天体の動きを止め、地球以外の星を手元に戻し、代わりに小さな灰色の星を一つ、地球の側に浮かべる。太陽の明るさを戻すと、一つだけ残って月を従え、太陽の光を浴びている地球がさっきより大きく、自らほのかに光って見える。それはここにいるみんなも、ルカも同じだろうか、と思いながらドニさんは言う。
「これが僕の住んでいる星、太陽系の第三惑星、地球です。僕と同じ星に住んでいる宇宙人の皆さん、ドニの移動プラネタリウムにようこそ」

 「宇宙人ドニ」の話は多岐にわたるが、まず話されるのは、今この場にいる人々が今夜見ることのできる天体や星座、その物語についての話だ。だいたいどこのプラネタリウムでも話されるものではあるが、実際の空に興味を持ってもらうためにも必要な、基本中の基本のネタだ。投影機を使う解説の時は、ルカも観客の一人として、じっと天球に映し出された星空を見ている。
 また、大きな天体イベントが近ければそれも話の種になる。日食や月食が近ければ再び粘土の惑星の出番だが、間近に迫る天体イベントはアルセウス座流星群である。流石に粘土の流星群を観客の頭上に降らすわけにはいかない。
「どうしてこの時期に毎年流星群が見られるのか。不思議だよね。それは、さっき見てもらったように、地球が太陽の周りを回っていることと関係があります。地球が太陽の周りを回る軌道、地球の通り道の上に、大きな彗星が通った後のチリがたくさん散らばっているんです。彗星はほうき星とも言うのに、ほうきみたいに掃除するんじゃなくて、地球の通る道にチリを散らかしていっちゃうんです。迷惑な星だよねえ」
 また笑い声。
「ところが、そのチリの散らばったところに地球がやってくると……」
 ドニさんが投影機を動かすと、予め光を強くしておいたアルセウス座の、首を高くもたげて天を駆ける異国の神を象った星の連なりの、そのちょうど胸の辺りから、四方八方に光が流れ始める。
「こんな風に、空いっぱいの流星群となって、私達の目に映るんですね。アルセウス座、と言う名はついているけれども、アルセウス座の方だけじゃなくて、空のどこにでも流れ星が見えるんです。本物を見る前に、ちょっと探す練習をしてみましょう」
 直径七メートルの空のあちこちに光が散らばり、子どもたちの指がそれを追う。ドニさんは微笑んでそれを見守っている。

 プラネタリウムの静かな熱狂が収まると、再びドニさんの解説が始まる。解説の第二部では「宇宙とポケモンの関わり」についての話がされる。アルセウス座流星群が近いここ最近では、流れ星や隕石に関連の深いポケモンの話題が華だ。
「流れ星と言えば、関わりがあるんじゃないかと言われているポケモンが何匹かいるよね。その中から、みんなもよく知ってて、一緒に暮らしてる人もいるんじゃないかな、というポケモンの話をします」
 ドームの天井から星の姿は消え、丸っこい星型の小さなシルエットが映る。ささやき声が広がる――ピィだ、ピィ。
 その声に答えるようにシルエットが色づき、愛らしいピンク色の姿が暗い天井に浮かび上がった。
「ピィは、今度のアルセウス座流星群みたいな、流れ星の多い日に姿を見せやすいと言われています。だから流れ星に乗ってやって来た、なんて言う人もいるよね。けどこれは違って、流星群の日はピィのお祭りなんです」
 ドームの絵が切り替わり、流れ星の元でピィ達が輪になって踊っているイラストが映し出された。
「ピィの仲間は夜、特に晴れた夜が好きなんです。ピィ達は感覚が鋭いから、明るくて眩しい昼間はあんまり好きじゃない。だから夜になってから活動を始めるんだけど、流れ星の多い日は何かピィにとって特別な意味のある日みたいで、こうして集まって踊っていたりします。それがどういう意味かはまだ分からないんだけど」
 また絵が切り替わり、踊っているピィ達が進化してピッピになっている。その上に浮かんでいるのは満月だ。
「ピッピになると今度は、満月の夜に集まって踊るようになります。月の光を羽に集めて、飛ぶことができるようにもなります。これはね、鳥のように飛んでるんではないんですよ。鳥は翼で風に乗って、上昇気流で高く飛ぶでしょう。でも、ピッピの羽は違うんだよ」
 ドームの中がざわついた。ドニさんはまた絵を切り替え、月を背に飛ぶピッピの絵を映した。
「ポケモンには、人間に聞こえない音を聴いたり、見えない色を見たり、そういう人間にはない感覚のあるものがたくさんいます。ピッピもそう。月の光を浴びても人間は何も感じないけど、ピッピの羽は、どうも月の光に混じっている特殊な磁力を特に強く感じるようになってるみたいで、だから空中に浮いちゃうんですね。上昇気流じゃなくて、月からの磁力という透明な糸で引っ張られるようにして。満月の日にピッピが輪になって踊っていると、周辺の磁場が異常に不安定になる、というデータがあるんですけど、何か関係があるんじゃないかと研究が進んでいるようです」
 感嘆のため息がドームをかすかに揺らすようだった。ドニさんの解説は続く。
「ピッピは月からやって来た、なんて言う人がいるけど、これもまだ証明されていません。月には探査機が何機も行ってるけど、それらしき影は見つかっていません。でも、実際に宇宙空間からやって来たポケモンは確認されています。このデオキシスというポケモンは……」

 その日の投影は二回行われた。次の日の朝九時からの投影を終え次第、隣のタチワキシティに出発し、そこでも投影を行わなければならない。
 慌ただしいが、充実してもいた。メテノキャンディを手にしてドームを後にする子どもたちは星の光を纏っているように顔をぱっと輝かせて友達と喋り続け、大人も胸に秘めた静かな興奮を抑えきれないような微笑みを浮かべていた。後片付けをするドニさんも、そんな風にして一人笑った。
 そしてドームの空気をすっかり抜き終わった時、ぺしゃんこになった球体の対極、ドニさんの七メートル先に、ポケモンが一匹立っていた。
 ルカではない。ルカはトラックの荷台に乗り込み、数々の機材を厳重にしまいこんでいるところだ。
 その小さなポケモンは身体と同じくらい大きな頭を少し上げてドニさんの顔を見た。歩き始めの人間の赤ちゃんにも似た、小さくて弱々しげな体全体がふわふわと上下に揺れている。その短い足が地面に着いていないことをドニさんは知っている。そのポケモンの右腕に巻かれたピンク色のリボンは、ドニさんが着けてやったものだからだ。
「よお、ピンキー、やっぱり来てたのか」
 ドニさんが困ったように笑うと、ピンキーと呼ばれたリグレーは、球状の指を信号のようにチカチカ光らせた。

 いつの頃からか、そのリグレーはドニさんの前に現れるようになった。姿を見せるのは決まって、その日のプラネタリウムの上映がすっかり終わり、片付けをしている時だ。
 いつも一匹で現れるそのリグレーが同じ個体なのかどうかドニさんは判別がつかなかったので、とりあえずの識別用に腕に巻いたリボンが、そのまま彼の目印になった。性別が判明したのはスマホの個体判別アプリを使った時だが、その時にはピンクのリボンも「ピンキー」というとりあえずの呼び名もすっかり馴染んでしまっていて、ピンキーの方でも、つるりとした腕にいつでもしっかりとリボンを巻いて現れるのだった。
 どうやってピンキーがドニさんのトラックを探し当てるのか、どうしていつも上映後にだけ現れるのかは分からなかった。常連客が連れてきているのかとも思ったが、アプリの判別するところによると彼にトレーナーはいない。だが、こんなに人馴れしたポケモンが全くの野生、というのも考えづらく、心無い誰かに捨てられでもしたのだろうか、とドニさんは密かに心配してもいた。
「上映はおしまい。もうみんな行っちまったよ、ピンキー」
 町役場を去っていく最後の人影を見やりながら言うと、ピンキーは緑色のまるい指をゆっくりと点灯させた後、ふわりと身体を浮き上がらせ、その場で宙返りをしてみせた。まるでその場に見えない鉄棒があって、逆上がりでもしているかのようなゆったりしたスピードで。
 荷台から降りてきたルカがピンキーに気づいて近づき、親しげに身をかがめて何やら話しかけている。ルカの方を向いたピンキーの指は七メートル先からでも分かる程にすべての色が賑やかに点いては消え、ふんわりとした連続ジャンプの合間に、電子音のような鳴き声らしきものが、風上にいるはずのドニさんの頭にもはっきり響いてきた。エスパータイプ同士で通じるものがあるのか、二匹は出会った当時からこんな風だ。
 リグレー。ブレインポケモン。五十年程前に、UFOが墜落したとされる砂漠の彼方から突然やって来たというポケモンだ。その謎に満ちた遭遇以来、彼らは宇宙からの侵略者だとか、高次元の生命体だとか、とにかく色々なとんでもない噂話の主役になっている。もちろんドニさんはそれらの噂が全てただの噂でしかないことを知っているし、約五十年前のUFO墜落も、怪しいオカルト系雑誌の飛ばし記事が元だったことを知っている。
(でもなあ……)
 ドニさんは、自分の声が頭の中で反響するのを感じていた。頭蓋骨に守られた脳はプラネタリウムのドームのようだ。そこに今日の上映で自分の言った言葉が響く。
「宇宙から来たポケモン、というのは、かつては言い伝えや噂でしかありませんでした。でも、今回お話したデオキシスのように、このポケモンは本当に宇宙から来たんだ、ということが、今では研究で分かるようになっています。これからも、宇宙の研究が進んでいくと、そういうポケモンが増えていくかもしれません」
 そうなんだよなあ、とドニさんは何とも言えない気持ちで夕闇に染まりつつある空を見上げた。リゾートデザートで満天の星空を見上げて以来、空を見る度にあの時の気持ちが蘇る。圧倒され、打ちのめされ、でも何故かそれが心地よかった。調べれば調べるほどに宇宙の果てしなさに心躍らされ、目に映る数千万光年先の星の光に微かな畏怖の念を抱いた。
 けれど、最近はその無限の果てしなさを持つ空間が、とんでもなく虚ろな場所に見える気持ちになる時がある。
 空気の冷えに僅かな湿り気を感じた。こんな気持ちになるのは雨が近いせいだとドニさんは思った。雨は好きじゃない。
 視線を降ろすと、ピンキーの姿はもう消えていて、夕闇に一番星を探すルカの後ろ姿だけがあった。彼はこうしていつも、いつの間にかどこかへいなくなってしまう。
 ドニさんはため息をつくと、黙々とテントを折りたたみ始めた。

☆☆☆

 ドニさんは本当に雨の日が苦手だ。
 ひっきりなしにワイパーが動き、フロントガラスの雨粒をドニさんの視界の端に押しやる。フロントライトが雨で霞む道路にぼんやりとした光の道を作る。
 それでも運転席のドニさんは、朝からうんざりしたようなため息や唸り声を幾度となく繰り返していた。大型トラックの運転に神経を使うから、ではない。タチワキシティから次の目的地のライモンシティまで余裕を持って移動するはずだったのに、ホドモエシティ方面へ続く無料高速で渋滞に巻き込まれているからでもない。無論、じっとりした車内の空気が、ニヤけたワルビアルのロゴが入ったライブTシャツを腹に張り付かせるからでもない。ただ単に、半端なく気が滅入るのだ。
 カーラジオからはニュースが流れていた。ミアレシティの大通りでフレア団の残党がテロを行ったのだという。死傷者の数を淡々とした調子で読み上げる声が耐えられなくなり、チャンネルを変えた。そこでもニュースが流れていたが、内容は宇宙に関するものだ。自然、ドニさんは聞き耳を立てた。
「アローラで発見、捕獲されたウルトラビースト『ウツロイド』について、アローラ空間研究所は『異次元空間に存在するポケモンである』との見解を発表しました。所長のバーネット博士は会見で、彼らの生態や遺伝子を研究することで、ウルトラビーストと地球のポケモンの繋がりが分かるのではないかと……」
 カーラジオが消された。ホワイトノイズのように雨音が響く車内で、助手席のサイドガラスから外を眺めていたルカが不思議そうに運転席を振り返る。不機嫌なドニさんの漏らす声だけをシャットダウンするために、左耳だけに着けられていたルカのイヤホンの反対側から、ドニさんの大好きなロックバンド「ザ・レプティリアンズ」の軽快な演奏がうっすら流れ、雨音に混じる。
 雨はひっきりなしに厚い雲から降り落ちて、トラックを包み込む。
(だから、雨の日は嫌なんだ)
 フロントガラスに描かれては消される丸い水滴の跡を見ながらドニさんは思った。
 見渡す限りの雨のカーテン。空を覆う陰気な黒雲。そんな天気の中でこんな狭い運転席の中に閉じこもっていると、空や宇宙から全く切り離されたような気になってくるのだ。
 あの雲の上では晴れの日と変わらずに太陽が照り、月が回っているんだろう。空気のない澄んだ空間の先では、星々は昼も夜もなくぱちぱちと燃え続けているのだろう。そう思ってみても駄目だった。逆に狭苦しい運転席の中の自分がとてもちっぽけな存在に思えてくる。
 あの、空を見上げたり宇宙のことを勉強したりする時に感じる、永遠のような空間への憧れと畏れの気持ちと反比例して育っていった虚ろな気持ちが、こんな雨の日には残酷なほどはっきりと形を持って、ドニさんを苦しめる。
 四角く狭い箱に閉じ込められて地べたを走り回るだけの自分。直径七メートルの偽物の空の下で胸を張っている自分。
(でかい宇宙に比べて俺のやってる事は、なんてちっぽけなんだ、なんて滑稽なんだ)
 普段のドニさんなら絶対に思わない、口に出さない自嘲が喉元に湧き、胸と腹を一層重くする。
(ウツロイド、だったかな)
 先程消したカーラジオに出てきた名を思い返す。異次元から来たポケモンなのだと、遠くアローラの地の研究者はそう言っていた。
「どこまで行っても、ポケモン、ポケモンなんだな」
 うっかり声に出すと、ルカが怪訝そうな顔をした。それからイヤホンを左耳から右耳に付け替え、外した左耳の方をドニさんの耳に押し付けてきたので、ドニさんは手を振って押し返した。運転中のイヤホンはご法度であることを彼女は未だに理解しない。
(虚しくなんねぇのかなあ)
 再び静かな雨音とささやかなロック音楽に満たされる車内でドニさんは思った。
(どこまで行ってもポケモンに先回りされて、下手すりゃポケモンの方から宇宙やら次元やら飛び越えてこっちに来られるんじゃあ、俺のやってることは何なんだろって、研究所の偉いさんは思わねぇのかなあ)
 渋滞の列は相変わらず、ドニさんの太陽系を車道の真ん中に押しとどめている。

 結局その日はホドモエの跳ね橋を超えるのに精一杯で、ドニさんは橋の近くのトラックストップにトラックを停め、そこで夜を明かすことにした。
 雨は止んでいた。ガソリンを入れ、自分もルカもシャワーを浴びて湿気を払い、コインランドリーに汚れた衣服を突っ込む。ついでに併設のポケモンセンターでルカの疲労を取ってもらい、最後にコンビニで食料や足りない生活用品を買い込む。四年前にヒウンシティを出てからはずっとこういう生活だ。イッシュの西に広がる広大な砂漠の果てで先住民たちに彼らの語り伝えてきた星の話を上映したこともある。ヒウンシティの裏通りのゴミ捨て場のような空き地を急遽片付けてドームを建て、その裏通りを生活の場にしている人達のために上映を行ったこともあったし、荷台に積んであるもう一回り小さいドームを使って、病院で上映をしたこともある。重い病気で外に出られない子供のために。
 自分のしてきたことに全く意味が無いとは思っていない。一つ一つの公演、一人ひとりの笑顔をゆっくりと思い出せば、自分は確かに彼らの人生にメテノキャンディ一つ分くらいの思い出は残してやれたよな、とドニさんは思うことができる。
(でもなあ……)
 ドニさんはスリーパーキャブの簡易二段ベッドに腰掛け、簡易冷蔵庫に貼ってある可愛らしい絵を見つめる。まるくて大きなドニさんが黒い空に星を映し出しているところがクレヨンで描かれているその絵は、上映後に小さな女の子にプレゼントされたものだ。ピンキーの腕に巻いたピンクのリボンは、元はこの絵に巻かれていたものだった。
(ピンキー、お前はまた、ライモンで先回りして待ってるつもりかい)
 二段ベッドの上で寝息を立てるルカを起こさないよう、頭の中で問いかける。上映後の夕暮れ時以外はどこで何をしているかも分からない、ピンクのリボンを巻いたリグレーに向けて。
(ピンキー、お前やお前の仲間たちが本当に宇宙からUFOでやって来たって言うんなら、)
 もう一度絵に目を向ける。小さな夜空。偽物の星。UFOで自由自在に宇宙空間を飛び回れる存在からすれば、きっと笑ってしまうくらいにちゃちな、直径七メートルの黒い空間。
(……俺たちのやってることは、お前にはどう見えるんだ?)
 返事など来るはずもなかったが、それでも答えを待つように、ドニさんはベッドに腰掛けたまま、しばらく動かずにいた。

☆☆☆

 ライモンの観覧車前に置かれたドームには、人がごった返していた。
 その日三度目、そしてその日の最終上映に収容人数ギリギリまで詰め寄せた人々を見渡せば、そこには老若男女、様々な顔がある。大きめの都市に行くと顔ぶれの多彩さが増すことをドニさんはよく知っていた。こうなると入口付近に待機しているルカの姿を確認するのがいつもより難しくなることも。子どもが多ければ、端の方で凝り固まった闇のようにうずくまっているルカの姿は慣れたドニさんの目にはむしろ見やすいが、大きめの人影が多いと、どうしても彼女の姿は隠れてしまうのだ。
 それでも、
「こんにちは、今日は来てくれてありがとう。宇宙人のドニです」
 この一言で小さな夜空の下にワッと歓声が湧いた瞬間、ドニさんの心にいくつも星が煌めいた。永遠のような時の中でひたすら燃え続ける星のように、ドニさんのいつもの口上は進んだ。これまでも、そしてこれからも繰り返されるであろう言葉のめぐり。それに合わせて造り上げられる太陽系も、太陽の現れるタイミングから各惑星の自転速度、公転速度に至るまで、全てが完璧だった。姿の見えないルカがどうやったのかは分からないが、木星から外の星は、それぞれの星の色のもや、その星を構成しているガスの覆いを微かに纏ってすらいた。ドニさんとルカ、そして無数の人とポケモンが暮らす地球とその衛星である月が、太陽のスポットライトとドニさんの高らかな紹介の声を受けて輝く時、ドームの中は無数の拍手の音で満たされた。それはドニさんが想像する、星の燃える音に似ていた。歓喜に満ちた熱。ぱちぱち、ぱちぱち。
 星座の説明の時にはしんと静まり、アルセウス座流星群の話が始まるとにわかにドーム内の熱が上がる。ドニさんがドームに流星の雨を降らすと、再びの歓声とため息が返戻のように半球の空に投げかけられ、興奮に満ちたささやき声がひたひたと空間を満たす。そこにあるのは完全完璧の小さな宇宙だった。ドニさんの口から生まれた言葉のビッグバンが太陽系を形成し、星々を宇宙のそこここに散らし、星を降らせた。観客の驚きの声は宇宙を走る彗星だった。ささやかれる密やかな声やため息は、正体は分からない、けれど確かに宇宙空間に満ちているダークエネルギーのようだった。
 しかし、完璧な宇宙などありえない。あるとすればそれは模型の宇宙であり、死んだ宇宙だ。
 人間の目には永遠不変に見える星々も、いずれは白色矮星となって熱を失う。美しい星雲の中では、たった今でも生まれたての原始星が熱を発している。宇宙それ自体も、この半球の収容限界であるたった八十人の人間どころではない、数千億の銀河をはらんだまま、今も果てしのない膨張を続けているのだ。
 そして、生き物たち。時に宇宙と地球の狭間を漂い、時に隕石に乗って宇宙を宛もなく旅するものたち。ひょっとすると人間の知覚しないどこか彼方の天体の上に住み暮らしているかもしれないものたち。
 本当の宇宙はこんなにも豊かで、生き生きとしていて、無数の命を抱いているのに、ドニさんは自分で作った宇宙の天井にすら手が届かない。
(やっぱり、あいつは笑うだろうか?)
 ドニさんは一匹のリグレーのことを思い出す。腕にピンクのリボンを巻いた、ある日突然現れた謎のポケモンのことを。
(それとも、どこかで呆れているんだろうか?)
 昨夜の問いかけの答えを、ドニさんは突然に知りたくなった。だって、ずるいじゃないか。こんなにも人間は地球に溢れ、数限りない衛星や電波や宇宙船を飛ばして星々に問いかけていたのに。小さな金属の箱にありったけのメッセージを託して、自分たちではない誰かに届けと願いを込めて打ち上げたのに。本当にリグレーがおかしな噂で言われている通りのポケモンだったとしたら、当たり前のように地球にやってきて、何にも言わずに当たり前の顔をして人間の側にいるなんて、それはなんだかずるいじゃないか――
 ドニさんは星を降らすのを止め、深呼吸して顔を上げた。半球内の熱が一気に鎮まる。八十人の人間と一匹のゴチルゼルを閉じ込めた半球形の小さな宇宙に不確定の揺らぎを吹き込み、本当の本物の宇宙にできるのは、ドニさんだけだ。それは、とても危険なことではあるのだけれど――
「ライモンシティって、砂漠がすぐそこにあるよね」
 出し抜けの問いかけに、ざわざわと観客がざわめく。奥で黒い影が跳ねるように頭を上げた。ルカがそこにいるんだとドニさんは気づいた。
「なので今日は、ある日突然砂漠の果てからやって来たポケモンの話をします」
 そのシルエットを大きく空に映し出す。いつもなら大抵、おおむね星型をした影が映っているはずのそこに、ひとのような姿の影が立っている。
 その異様な姿かたちに威圧感を覚えたのか「こわい」という子どもの声がした。その不安げな声を聞いたドニさんはなぜか、幾らか気持ちが落ち着くのを感じた。少し考えてから、ドニさんは、一言一言話しだした。
「こわい、かもしれんね。僕も宇宙人だけど、やっぱりこわい。こわいというのはなぜだろう、と考えてみたら、分からない、という気持ちにたどり着いた。実際、このポケモンについて分かっていることは、ほとんどないんです」
 そこでシルエットに色がついた。体は薄青色。一見するとロボットのように無機質な印象を与えるポケモンだが、そのまんまるの指が親しい相手の前では信号のようにチカチカ瞬くことや、重力を無視してふわふわ揺れる体は時折心の赴くままに大きく何度も跳ねることをドニさんは知っている。そのことに気づくとなんだか嬉しくなった。
「ちゃんと分かっているのは、五十年前に砂漠の果てで初めて見つかった、ということだけ。そこにUFOが落ちていたという記事が当時出ましたが、あれはウソです」
 なぜか笑い声が客席に巻き起こった。ドニさんも困ったような笑みを浮かべ、
「ウソというか、そんな今までいなかったけど砂漠で突然見つかったなんてポケモンがいたら、本当に確かめられたことじゃなくても色々言いたくなってしまうよね。だから、宇宙から来たとか、次元の違うとこから来たとか、今も色々言われてるんだけど」
 ゆっくり話を進めながら、ドニさんの胸の奥でもう一つの声が叫ぶ。見てるか? 聞こえてるか、ピンキー? これは本当のことなのか?
「実際にUFOに乗ってきたなら部品や破片なんかが見つかってるはずだけど、それもない。宇宙から来たとかは全部、噂でしか無い。分かってるのは砂漠の果てで見つかったってことと、サイコパワーが使えることと、何か伝えたい時は指を色々に点滅させること。最後のは進化系のオーベムの性質だけど、恐らくリグレーにも当てはまるんじゃないかと言われています」
 ピンキー、今ここにいるんなら、これはウソとかホントとか、本当のことを俺に伝えてくれ。俺は分かりたい。お前を分かりたいんだ。
「僕は思うんだけど、人間の側だけで好き勝手言うんじゃなくて、もっとそのポケモンのことを分かろう、知ろう、と考えるのが大事なんじゃないかと、まぁこれはリグレーだけじゃなくて全部のポケモンに言えることなんだけど……」
 お前の思ってることが俺は知りたいんだ、ピンキー。このドームはお前の目にはどう映ってるんだ? なんでいつも片付けの時にしか現れないんだ? あの点滅や宙返りの本当の意味は何なんだ? 俺がルカみたいにポケモンだったらお前の言うことが分かるのか?
 答えてくれ、ピンキー!
「例えばリグレーやオーベムであれば、指先の点滅のパターンを解読することで考えてることやしたいことが分かると思うんだけど、まだうまくいってないようです。なので、そういう風に相手の仕草や表情なんかから一つずつ、相手の気持ちを知っていくこと。同じように自分のことも分かってもらうこと。UFOがどうとかよりも先に、まずそういうことが大事なんじゃないかと僕は思います。最初に言ったよね? こわいという気持ちは、分からない、というところから来るって。だから、段々お互いのことが分かれば、こわい、という気持ちも段々なくなって、友達にもなれるんじゃないかな」
 ドニさんが言葉を切ると同時に、暗がりから飛び出してきたものがあった。
 誰もがはっと息を呑み、小さな宇宙は完全に静止した。ふわりふわりと、水素かヘリウムの入った風船のように空中を漂いながらドニさんのところへ向かってくる「それ」以外は。
 透明な水の中で立泳ぎでもしているかのようだった。右腕に巻かれたピンクのリボンがひらひら揺れて存在を主張する。一生懸命手足をばたつかせているのに、薄青色の体はもどかしいくらいに進まない。
 観客は無言でただ見守っていた。声を出したら落っこちるとでも思っているみたいだ。ドーム最奥の、操作盤の乗った低い机に座っていたドニさんは弾かれたように立ち上がり、両腕をいっぱいに伸ばした。球体の指が三つついた太い腕が両手に確かに触れる。ドニさんは一気にその体を引き寄せて、腕の中に収めた。
 何か言おうとした途端、おかしな感触がドニさんの大きな腹をくすぐった。何か柔らかいもので腹をピタピタと叩かれているような。ドニさんは腕の中に収まった生き物を見た。ピンキーは大人しくしている、ように見えた。大人しくしていない部分が腕の下にあった。とがった形状のそれは、ガーディがするようにパタパタと揺れてドニさんのライブTシャツを叩いていた。
「……お前、尻尾あったんだな」
 うっかり漏らした声がマイクを通じて拡がった途端、ドームはまさにビッグバンが再び巻き起こったかのような笑い声と口笛でいっぱいになり、やがてそれはこれまでドニさんが聞いたこともない大音量の拍手に変わっていった。ぱちぱち、ぱちぱち、ぱちぱち。永遠のような時を燃える星のように、いつまでも終わらない。
 ピンキーを抱いたドニさんはその音を満面の笑みで受けながらも、ある一点からどうしても目を離せずにいた。
 ピンキーが舞い上がった時、ドニさんだけが彼女の異変に気づいていた。あの時、いつもだるそうな目をいっぱいに見開いて、目立たずにしていなければならないのに思い切り立ち上がったルカ。
 彼女はこの歓喜に満ちた空間の中で、やはり目を大きく開き、呆然とドニさんの方を見つめていた。

「……それで、だ」
 夕暮れ、観覧車前、片付いた広場の隅。
 ドニさんはルカとピンキーが並んで座っているベンチを見下ろしていた。ピンキーは椅子の感触が慣れないらしくしょっちゅう下を向き、ルカはいつもの半目に戻ってしゃんと座り、反抗期のティーンエイジャーよろしく真っ向からドニさんを睨んでいた。彼女の種族としての年齢が人間のその年頃に該当するかどうかは不明だが、そんなことはこの際どうでも良い。
「聞きたいことは山程あるんだが」
 ルカの方に向き直る。ドーム内での態度を見た時、はっきり分かった。ピンキーがずっとドニさんのトラックに着いてこられたのは、ルカがずっとどこかに匿って、一緒に移動していたからだ。運転中にしきりに荷台の方を確認しようとする癖の意味も、イヤホンを片方しかしない理由も分かってしまった。先程の様子からすると、こっそりピンキーにプラネタリウムを見学させてもいたようだ。恐らくはルカのスカート状の体の下にでも隠れさせていたのだろう。
 そのことを問いただすと、ルカはうつむいた。そして頷いた。
「ピンキーが野生だったからまだいいが、もしこいつが誰かのポケモンだったら、お前のしたことは泥棒だぞ」
 つい語気が荒くなり、ルカの目が鋭くなる。ピンキーが両手を突き出し、身を守るような姿勢になった。いけない。ドニさんは一旦口を閉じた。エスパータイプのポケモンの感情や体調は人間の感情に左右されやすい。きちんと伝えたい事がある時は、感情的になってはいけないのだ。
 悲しかった。腹が立ってもいた。何よりも、何でも分かり合っている最高のパートナーだと思っていたポケモンにずっと嘘をつかれていたことが辛かった。ドニさんはそういう自分の気持ちを、訥々と語った。
 話し終えると、ルカはおもむろにベンチから立ち上がった。ピンキーはふわりとベンチの上に浮いた。そして二匹で静々とトラックに向かっていく。その後ろ姿に、ドニさんは置いて行かれたような気になった。自分の言ったことが伝わらなかったのかと思い、その場から動けず、ただ立ち尽くしていた。
 だが、二匹はトラックの座席の方へは行かず、荷台に入り込んだ。そして二匹とも何かを持って出てきた。ルカの手にしているものは厚さと重みのある赤い小箱で、その中にはルカの使う粘土の惑星の中でも、地球や金星、水星などの小さめのものが厳重に保管されていることをドニさんは知っていた。
 そして、ピンキーが両手に大事そうに抱えて持ってきたものを見て、ドニさんは一瞬怪訝な顔をした。恐らく長いこと荷台の奥にしまってあったのだろう、くたくたで、埃をかぶった、ミネズミのぬいぐるみ……
 それをどこの上映で使ったのかに思いが至った時、ドニさんは驚嘆した。
「まさか、お前、本当に砂漠の果てから着いてきたのか……?」
 分かりやすい返事はなかった。代わりにピンキーは、さも愛しそうに、その汚れたぬいぐるみを抱きしめたのだった。

☆☆☆

 あの日の上映は、ドニさんの中でもかなり思い出深いものだ。
 頼まれたのはもう少し前だが、実際にそこへ行ったのは、移動プラネタリウムを始めて二年目の春だったと記憶している。暑くもなく寒くもない時期を選んで、イッシュの西へとひたすらトラックを飛ばした。
 砂漠というのは正確には正しくなかった。乾いた草原が地平線の果てまで続き、その茫漠たる景色の中に彼ら――先住民たち――の居住区は全く突然に現れた。
 味気のない小屋が散開し、数頭のシママが柵に囲われていた。各家に灯りはつくが、水道はなく、彼らの長が風向きや雲の動きを見て、スワンナに「あまごい」の舞をさせるのだと言っていた。所在なげに枯れ草の上に止まっている宇宙色の大型トラックがやたら異質な物体に見えたが、ひとまずドームを建てる場所は問題無さそうだ、とドニさんは思った。
 ドームの中に集まった人々は一見すると街に住む人々と変わりない格好に見えたが、よく見れば皆がそれぞれに、ワシボンの羽の耳飾りや名も知らない草の実を連ねた腕輪、雄のケンホロウの羽を色とりどりにあしらった首飾りなどをつけていた。最後に長が丈夫そうな毛皮と羽の出で立ちで現れ(上着はバッフロン、ズボンと靴はメブキジカのもので、上着に飾った羽はウォーグルのものだと、上映後にドニさんは教わった)一番真ん中に近い所、投影機に近づいていいギリギリの場所に座った。
「宇宙人ドニ」の自己紹介の後、ドニさんは他ではやらないことをした。粘土の惑星は全てルカの足元に戻り、フラッシュの太陽だけが残っている。投影機は動かない。その時はまだゴチミルだったルカが念力で太陽の下に浮かび上がらせたのは、小さなミネズミのぬいぐるみだった。
「この星の始まりを、あなたたちはこのように伝えています。世界は果てしのない泥の海で、そこに最初の人、サンダーフットがただ一人浮かんでいました。そこに一匹のミネズミが泳いできて、こう聞いたのです。
『お兄さん、こうして一人でいて寂しくはありませんか』
サンダーフットは答えました。
『お前が来てくれたから、寂しくはないよ。ただ、こうしていてもつまらないな。ミネズミよ、泥を固めて大地にできないかい』
するとミネズミは泥の中で手足を一生懸命動かしてもがき始めましたが、うまくいきません……」
 ドームの中での彼らはとても静かで、拍手を鳴らすことも声を上げることもない。けれど、ルカがミネズミのぬいぐるみの側に泥混じりの粘土を湛えた水槽を浮かべた時、確かにドーム内の空気が変わったのをドニさんは感じた。
 ミネズミのぬいぐるみの足元で泥が渦を巻き始めたのを見ながら、ドニさんは続けた。
「サンダーフットがミネズミの足元の泥に息を吹きかけると、そこの泥が固まって、ミネズミとサンダーフットが一緒に乗っても丈夫なくらいの地面になりました。サンダーフットが息を吹きかけたところを、ミネズミが足でどんどん固めていきます。そうするうちに段々に地面はまるくなっていき、最後に大きな泥の玉のようになりました。こうして最初の人は世界に大地を作ったのです」
 ミネズミのぬいぐるみの横には、ドニさんが語ったのと同じに泥の玉ができていた。もちろんこれはぬいぐるみがやったのではなく、ルカが念力で泥をこねて造り上げたものなのだが、そこは問題ではなかった。
 ルカは泥の玉の側に、そっくり同じ大きさの惑星を浮かべた。瞬間、ドーム内に風が吹いたような感覚があった。
 星の知識以外に話すことは何一つ決めていなかった。それこそ、果てしのない泥を少しずつ固めて星にしていくように、ドニさんは言葉を紡いだ。
「あなたたちは、地球がまるい形をしていることを、西洋で地動説が生まれるずっと前から知っていた。僕はここに来るまでに随分と長いこと地平線を見ました。ほんの少しまるい地平線は、あなたたちやあなたたちの御先祖にとって馴染み深い景色なんだと感じました。だからあなたたちは、こんな風に大地の精霊の声を聞くことができたのだと。私はあなたたちの目と耳を素晴らしく思います」
 ルカが泥の玉と粘土の地球を引き寄せる。そして用意しておいた「けむりだま」を割り、出てきた煙を念力で太陽の周りに纏わせた。フラッシュの太陽は、ゆっくりと渦巻く平たい煙の雲の中心で鈍く光っている。
「そして」ドニさんが続ける。「あなたたちが伝えてきたこの星の始まりは、この太陽系の始まりにも似ています。太陽系は最初、宇宙に漂う星雲の塊でした。その塊の中心で、集まった星雲の重力と熱がどこまでも高まって、やがて核融合反応を起こして太陽となったのです。太陽の周りには星雲のガスや塵が果てしなく広がっていました。サンダーフットが漂っていた泥の海のように」
 誰も気づかないうちに、白い煙の円盤の中に、粘土の惑星が漂っている。ルカは念力で少しずつ煙を引き寄せ、太陽系にかかった雲を晴らしていく。
「地球や他の惑星は、このガスや塵が太陽の周りを回るうちに、少しずつ自分たちの重さでくっついて大きくなってできたものです。まるでミネズミとサンダーフットが少しずつ果てしのない泥を丸く固めていったようですね」
 太陽系はすっかり今あるような形になって、ドームの真ん中で公転していた。太陽を消し、全ての惑星をルカが足元に収めると、ドームの中は初めて真っ暗になった。
「さて、この大地を作ったサンダーフットは、その後色々な生き物を作り、森や川を作り、沢山の冒険をします。では、一緒に大地を作ったミネズミは、どこへ行ったのでしょう。――答えは、空。あなたたちは、その姿を今も天に残しています」
 投影機が動いた。たったひとつの星座が浮かんだ。柄杓型の星の並び。
「この星の並びは、ある国では北斗七星、またある国では帝車、身分の高い人の乗る車と呼びます。世界では、この星の並びを含めた星座をリングマ座と呼ぶのが公式の呼び方です。でも、ミネズミの星、という呼び方をするのは、僕が調べたところ、あなたたちだけです。どこから見上げても星の並びは同じだけど、それがミネズミの姿で夜空に上がるのは、あなたたちのところだけ。わかってくれますか、僕の言うこと。僕はこのことを、凄く面白くて大切なことだと思っています。一つの星の並びに、世界的に定まった一つの名前だけが伝わっていくんじゃなくて、あなたたちが先祖から伝えられた呼び名が、これまでも、これからも伝わっていくことが……」
 ドニさんはそこから先をしばらく言えなかった。必死に涙をこらえていたのを覚えている。
 ずっと石のように押し黙って上映を見ていた長が、そこで初めて笑顔を向けて、大きく頷いてくれたからだ。

☆☆☆

 上映の後、長に両手で硬く握手をされたことをドニさんは今も覚えている。
 服や靴の由来を教わり、「友」と呼ばれたことも覚えている。
 だが、その上映をこっそり見ていた一匹のリグレーのことは、たった今まで知らなかった。
「その時、ピンキーは中にいたのか?外にいたのか?」
 ルカに聞くと、彼女はひょいとピンキーを抱き上げて荷台の側に行き、ピンキーを置いて自分だけ荷台の中に引っ込んでしまった。ピンキーはミネズミのぬいぐるみを抱いたまま、荷台の外で所在なげに浮いている。
 あの上映の時、ドーム内は太陽の出ている時が多かった。そこでリグレーがうろうろしていたら、いくらなんでもすぐに気づいただろう。まだゴチミルだったルカの陰に隠れられたとも思えない。それならピンキーは、今みたいにドームの入り口の隙間から、どうしよう、という感じで上映を見ていたのだろうか。一人ぼっちで。
 荷台からルカがひょいと顔を出し、ピンキーを見た。これが二匹の出会いを再現しているのだとすれば、恐らくドニさんがドームの中で長と話していた時だ。
 ルカは外に出ると赤い小箱を開き、一度その中の惑星を宙に浮かせて、またしまった。それから箱を丁寧に地面に置き、右手を高く掲げて、振り下ろした。何か細かいものが撒き散らされるのがドニさんの目に見えた。
 そして次の瞬間、ピンキーの姿が消えた。
「はっ!?」
 わけがわからないままどたどたと駆け寄るドニさんの前で箱がぱたんと閉じられる。何をしたんだ、と喘ぎ喘ぎ聞くドニさんをルカは全くもって平然とした顔で見ながら、何でもないように箱を開けた。ピンキーが飛び出してきた。
「は? ……ああ、そういう、ことか?」
 ドニさんは箱の中をおずおずと見、そして麻痺した目と頭をどうにか働かせ、理解した。
 赤い小箱の中には分厚い紙製の梱包材が詰まっており、ポケモンセンターでモンスターボールを収めるような丸い穴が六つ空いていて、そのうちの五つに太陽系を構成する小さめの星がぴったり収まっていた。水星、金星、地球、火星、そして月。
 穴が一つ余っている。
 恐らくは予備として開けられた穴なのだろうが、それ以上に、まさにポケモンセンターの受付さながらに整然と並んだまるいくぼみは、確かに五つでは収まりが悪いように見えた。
 ともかく、そこにピンキーは入っていた、らしい。何かを振り下ろすルカの仕草の意味は、恐らく取っておこうと思った泥の玉を捨てたのだろう。
 ただの箱にトレーナー認識機能はない。使われていないくぼみは誰のものでも、何のためでもない。そこに入っていたピンキーが野生のままだったのも、理屈としては頷ける。
「でも……何でだ?」
 ドニさんはゾロアにつままれたような顔でピンキーとルカを交互に見た。ピンキーは相変わらずくたくたのミネズミのぬいぐるみをぎゅっと抱いたまま、空中で胎児のようにまるまっていて、顔が見えない。ルカはドニさんの視線を受けると、ちらりとピンキーの方を見やり、またドニさんに向き直って、困ったような、呆れたような顔でフンと鼻を鳴らした。見れば分かるでしょ、ということなのだろうか。
 不意に、ドニさんの頭の中で、またドニさん自身の声が響き始めた。
「……相手の仕草や表情なんかから一つずつ、相手の気持ちを知っていくこと……」
 プラネタリウムに星が灯っていくように、ピンキーの仕草が一つずつ思い起こされる。そこには、ドニさん自身で見ていない想像上の姿もあった。
 プラネタリウムの外で、一人きりでふわふわ佇むピンキー。
 ルカのスカート(らしきもの)の下からそっとドニさんの声に耳を澄ますピンキー。
 ドニさんの前にいる時よりずっと活き活きしていておしゃべりな、ルカを前にしたピンキー。
 人影のなくなった夕暮れ時の会場に、そっと姿を現すピンキー……
「ピンキー、お前、もしかして」
 彼の体の薄青色が、ほんの少し濃くなったようにドニさんには見えた。
 でも、今から言うことが、もしも本当だったなら、
「ものっっっすごく、恥ずかしがり屋なのか?」
 瞬間、エラー音のような物凄い音が、ドニさんの頭をビーーッとめちゃくちゃに締め付けた。
「うわっ、何だこれ痛っ、やめ、ごめ、ちょっ」
 悶えるドニさんを見たルカの、擬音にし難い笑い声が辺りに響く。
 でも、さっき言ったことが、本当に本当だったなら、
(なんか、凄く嬉しいな……)
 ドニさんの頭の中には、今日の最終公演でのピンキーの姿があった。今日までずっと隠れ続けてきたのに、大勢の人の前に飛び出してくるのに、どれだけの勇気が要ったことだろう。
 酷い頭痛が続く中、ドニさんは無理矢理にピンキーに向けて笑顔を作ってみせた。ピンキーは後ろを向いてしまう。可愛らしい尻尾がパシンとドニさんのまるい頬を打った。

☆☆☆

「……で、何で俺はこんなとこに連れてこられたわけ?」
 そうぼやくドニさんが突っ立っているのは、リゾートデザートのど真ん中である。地理上の意味とは違うが、とりあえず見渡す視界の三百六十度に障害物らしい障害物はないので、便宜上そう呼んでいいだろう。
 これだけ慣れているとは言え、一応はまだ野生のポケモンであるピンキーをこれからどうすべきかと思案しだした矢先に、ルカはさっさとピンキーを惑星と一緒にしまってしまい、助手席に飛び乗ると手招きでドニさんを急かした。
 何だよと思いながら運転席に乗り、目つきと手振りで半ば強引にエンジンキーを入れさせられるなり、この優秀かつ生意気なゴチルゼルは即座に優秀かつ生意気なカーナビと化した。右手は常に進んで欲しい方向を指し示し、曲がって欲しい角が近づくとしきりにそちらへと首を曲げた。こんな古典的な方法しか取らないのは運転中のサイコパワーの使用はご法度だと強く言い聞かせてあるからだ。イヤホンのことは覚えないのにこちらはちゃんと覚えているのだった。
 そして、ルカはドニさんを砂漠の真ん中に連れてきて立たせたかと思うと、赤い小箱からピンキーを開放して、ドニさんの正面を向かせた。しかし、ピンキーは何もしない。
 しばらく、無意味に見つめ合ったまま時が流れる。
「なあ、一体どういう……」
 やや気まずくなったドニさんがルカの方に声をかけた時。
 視界の隅を何かが掠めた。
 瞬間的にそれが何か悟ったドニさんが空を見上げると、そこには空いっぱいに光る砂をばらまいたような――初めてドニさんが見た時そのままのような――星空があった。
 いや、初めてドニさんが見た時とは大きく違うところが一つある。空のてっぺんから流星、地平線の彼方に流星、アルセウス座の真ん中辺りから、音がしそうなほどに強く光る弧を描く流星。
 自分で散々アナウンスしておいて忘れるとは、とドニさんは情けなく思った。今夜はアルセウス座流星群の日だったじゃないか!
 一つ流れたと思えばまた一つ。適当に願い事を呟いていれば叶いそうなほどの流れ星。
 美しい。確かに美しいのだが、
「いやまさか、これを見せたいだけ、ってことはないだろう?」
 ドニさんは相棒に聞いてみたが、ルカは意味深な半目(いつものことだが)を瞬いて、ぷいと後ろを向いてしまう。自然、ドニさんはピンキーと向き合うしかなくなった。
 ピンキーの腕には相変わらずミネズミのぬいぐるみが握られている。が、それはもはや両手で抱えられてはいない。片腕に持ったまま、ピンキーは空中で真っ直ぐ立ってドニさんを見ている。
 多分、ルカはピンキーに何かさせたくてここに連れてきたんだろう。でも、何を? ドニさんがピンキーに問いかけようとした瞬間、目の前のピンキーの姿が消えた。
 何が起きたのかと振り向いて相棒を呼ぼうにも、ルカの姿もなかった。そもそも自分が振り向けているのかさえドニさんには分からなかった。
 目に映るのは一面の夜空。前後左右、上下、どこを向いても夜の闇と星しか見えない。
 混乱するドニさんの周りで、およそ地球上の物理法則では説明し得ない現象が始まった。
 星空がすごい勢いで回り始めたのだ。

 それから見たものを、ドニさんは未だに上手く言語化できずにいる。
 少なくともピンキーが見せたものであることは分かっているが、どうやったのか、何を意味するのか、不明な部分があまりにも多い。
 だがとにかく、ピンキーはドニさんに見せてくれたのだ。恐らくは、彼自身のことを。

☆☆☆

 右も左も、上も下も分からなくなるほどの一面の星空はドニさんをはっきりと恐怖させた。
 とりあえずどこかへと進んでみようとは思うのだが、その向かうべきどこかが分からない。星は全て無秩序な光の点で、何の指標にもならない。
 目の前を何かが通り過ぎる。隕石だ。どこかへ飛んでいく。どこへ?
 他に動くものも見えないのでついて行こうとするが、いとも簡単に宇宙空間を滑っていった隕石に比べて自分はあまりにも遅い。あっという間に点ほどになり、恒星の輝きの中に掻き消えた隕石を追ってのろのろと動く体を押しとどめる力が効かない。わけのわからない恐怖に体が押し流されていく――

 全く突然に景色が変わる。
 立っている、と言っていいのだろうか。とにかく自分の足元に乾いた砂の大地がある。他には何もない。重力が自分の体を大地の上に押しとどめているのをドニさんは感じている。
 見上げると空がある。空いっぱいの光の点は、全て星だ。星の一つに向けて伸ばした腕を重力が引き止める度に、何か途方もない寂しさを胸の奥に感じる。
 首が痛くなるほど星空を見つめた果てに、無秩序な光の中に、突然一つの連なりがはっきりと浮かび上がる。ひしゃくのかたち。ミネズミのほし。うたうように言葉が胸に沸き起こり、体がぎゅっと熱くなる。自分自身が生まれたての星になったみたいだ。
 この乾いた砂地から見上げる空は、大きな大きな果てしのない半球だ。時に指差し、時に寝っ転がり、ドニさんは新たな連なりを見つける。「ひしゃくのかたち」を大きくすると、大きな「くま」の姿が浮かび上がる。「ひしゃくのかたち」のいちばん端を上へ上へと伸ばしていくと、そこは「こぐまのしっぽ」「ほっきょくせい」。何かに襲いかかるような星の並びの下に一際光る「ししのしんぞう」。
(ああ、今までぼくは、なんて近いとこしか見えてなかったんだろう!)
 大の字に寝っ転がってダアダア泣いているうちに、景色が変わる。まだ眩しさを残した「にしのそら」に輝くあの一番星は「ちきゅうのおとなりさん」「きんせい」。いつの間にかこの大地の名前が分かっていることに驚きながら身を起こすと、そこにあったのは、ドニさん自身のまんまるな顔で――

☆☆☆

 気づけばドニさんはリゾートデザートのど真ん中に戻っていて、目の前にはちゃんとピンキーがいた。ピンクのリボンも夜風に揺れている。
「ピンキー、」
 次の言葉が出てこない。今のは何だったんだ、と聞くのは何か違う気がした。さっきまで見ていたものを、恐らく目の前の相手がありったけの力で見せてくれたものを、分からない、の一言で切り捨てるのは良くない気がした。
 大切なのは、相手のことを分かろうとすること。
 ドニさんに分かったのは、あの、バラバラな光の点みたいだった星が星座の形を成して夜空から浮かび上がってくる感覚。一つ一つの星の名前を覚える度に、その星が一層煌めいて見えるあの感じ。
 その感覚の始まりだった、星の連なりの形。
 ひしゃくのかたち。
 ミネズミのほし。
 その名前がうたうように胸に沸き起こった時の感じを思い出した途端、ドニさんはピンキーに思い切り抱きつきたくなった。
「教えてくれたのか、お前の事を」
 恥ずかしがり屋のリグレーは、ドニさんが一歩前に出たのを見て取るなりにちょっと身構えた。そして、一瞬ぐっとまるくなると、思い切り手足を伸ばして、スローモーションでドニさんの腕の中に飛び込んだ。
「ありがとう」
 腕の中に大人しく収まったピンキー、の、尻尾だけはやっぱりパタパタ動いてドニさんの腹をはたいた。ルカがピンキーの翡翠色に輝く目とドニさんのぐしゃぐしゃな顔を交互に覗き込んで、ほっと息をついてからのんびりと流星群を眺めだした。
(俺は、お前を分かりたかった。答えて欲しかった)
 無論、ドニさんが疑問に思っていたことの全てが分かったわけではない。それでも、ドニさんの心は今宵の空のように澄み渡っていた。
(これから一つ一つ、友達になっていこうな、ピンキー)
 それから、二匹の宇宙好きのエスパーポケモンと一人の宇宙好きの人間は、めいめい眠くなるまで好きな格好で好きなだけ流星の光を浴び続けた。

☆☆☆

「……向こう一週間の予報です。前線の影響で雨が多く、特に十七日から十八日にかけてはシッポウシティ周辺で大雨、雷が予想されます。該当地域の方は充分に警戒を……」
 淡々と天気予報を読み上げるカーラジオをドニさんは微笑んで聞き、雨に濡れた交差点へそっとアクセルを踏む。
 助手席に座る相棒は飽きずに雨の落ちるさまを眺めているが、時折首を伸ばして荷台の方を見ては、ちょっと気まずそうにする。それがドニさんのベルトに着けられたモンスターボールの中にいる、もう一匹の相棒と遊びたい合図だということを、ドニさんはよく知っている。
「目的地まであと一時間半ってとこだ、雨だから安全運転で行くぞ、ルカ」
 いつもじゃない、と言いたげに頬を膨らます相棒を見てドニさんは笑う。雨の音が心地よくトラックの天井を打つ。
 あの雲の上では晴れの日と変わらずに太陽が照り、月が回っているんだろう。空気のない澄んだ空間の先では、星々は昼も夜もなくぱちぱちと燃え続けているのだろう。
――でも今は、この流星群のような雨の中に、俺の太陽系を走らせていたいんだ。
 四角く狭い運転席で、雨粒を受けてしっとりと輝く惑星たちのことを想像してドニさんは微笑む。
 この身は確かに、宇宙どころか、異次元どころか、雨雲さえ突き抜けられないかもしれない。直径七メートルのドームの天井にすら手が届かない己が、果てしのない半球をあっさり渡りきってしまうような存在に、いつか出会うかもしれない。
 でも、こちらが向こうをしらないのなら、向こうだってこちらを知らない。知らない同士なら、お互いに知っていけばいい。なあ、そうだろ? ドニさんはモンスターボールの中で眠る友に向けて、そっと語りかける。
 進行方向の先にルカが何かを見つけて指差す。子どもたちだ。恐らくは兄弟なのだろう、二人とも片手に花のような傘を持ち、もう片方の手で一生懸命黒い大型トラックを指差して、何か声に出している。星の名前か、あるいはその下に描かれた「宇宙、お届けします」の謳い文句か。ルカが手を振ると、二人の顔と手がぱっと華やいだ。
 隣の車線を沢山の色が流れていく。宇宙をまるごと載せたドニさんの大型トラックは、次の目的地を目指してゆっくりと進んでいく――