ふじのしま

かわいそーなの
テーマB:「ふじ」
 あ、これダメだ墜落する。
「マジか」
 思わず声が出たが口が開いた瞬間に風圧に押し込まれ腹が破裂しそうになった。唇を噛みしめ鼻から息を吐き続け少年はみるみる落下していった。風切り音以外もう何も聞こえない、頬肉がぶるぶる震え髪がオールバックになり瞼が捲れあがりそうになるそれでも目を開き猛烈に近づいてくる、黒、まっくろに、波打つ水面、少年は考えた、ここは130ばんすいどう。ペリッパーの背に乗って、真夜中、数十秒前まで、海面付近を飛行していたのだ。広すぎる海で迷子になって手持ちは殆んど『ひんし』になって、こんな時間まで、彷徨って、このべったりした黒塗りの海を西に進んだその先の、131ばんすいどう、の先のキナギタウン、のポケモンセンターを目指していた。ペリッパーも当の少年も長い海旅に疲弊していた。だから背後暗闇から猛然と迫りくる存在に肉薄するまで気付かなかった。確か図鑑にもこう記されているポケモンだ『じそく120キロで およぐことが できる』『きょうぼうで ずるがしこい うみのギャング』。大型タンカーも木端微塵にする初手の牙を躱しただけでも、ペリッパーを褒めるべきだ。次手のとんでもない『アクアジェット』をまともに喰らった。遥か満天の星空へ、少年とペリッパーはぶっ飛ばされた。
 闇も闇すぎて、境も曖昧で、煌めく海面と星屑波打つ上空と、どっちが空かも分からない。宇宙まで行ったらこんな感じなのかもしれない。なぜだろうトクサネシティから毎週打ち上がるロケットを思った。みるみるうちに遠ざかっていく。未知の宇宙へ向かっていく。そこには酸素がない。生きられる場所じゃない。多段式ロケットというのは燃料タンクを切り捨てながら飛んでいくらしいが空中分離は免れた。ペリッパーの両足を少年はなんとか掴み、ペリッパーもなんとか羽ばたき、みるみる高度があがっていった。眼下に見えていたギャングのエラが豆粒みたいになっていって、諦めたのか、海中にとぷんと消えた。
 助かった。と思ったのも束の間。
 そこでペリッパーは力尽き、制空を失ったのであった。
 ――それで冒頭。失神したペリッパーはボールに戻した。動ける手持ちは残っていない。バッグに万一の『すごいキズぐすり』が残っているがこの状況でどうする、頭からぐるぐる落下する少年の眼前にもう、水面キラキラ迫っている。いろんなことを考えた。これまでの冒険、仲間、家族……、いやいや、何か助かる方法、落下の衝撃、入水角度、あたまをまもる、くびをまもる? そのあと来るであろうお腹をすかせたサメハダーへの対処法、あがる、陸地に? どこにある? 何もない、せいぜい海しかない。ふ、ふじ、不時着……? だからどこに? どうやって?
 海の藻屑と化すビジョン以外に結局何も描けなかった。少年は頭からロケットよろしく、めくるめく宇宙へ突っ込んだ。










 はずだった。
 目を開けた少年の、目の前に広がる青は、多分これは、海じゃない。無論、宇宙でもない。



 ――空である。



「……助かった、のか……?」
『そーなのっ!』
 独り言に耳元で返事をされて、少年は跳ね起きた。
 仰向けに倒れていたすぐ傍に、小さなポケモンが立っていた。
 ちっちゃくてぷにぷにの、水色の体。ニコニコ笑った目元、ニコニコ笑った口元。それからそのおしりで跳ねる、目玉みたいな模様がついた黒い尻尾。
 ソーナノ。ほがらかポケモン、ソーナノだ。
「……そ、ソーナノ……?」
『そーなの』
『そーなの?』『そーなの!』
 少年のひと声を皮切りに、ぴょこり、またぴょこり。
『そーなのー』『そーなのぅ』『そーなのっ!』『そーなの』
「な、な、なんだ……!?」
 小さな草むらから、とんでもない数のソーナノたちが、次々と頭を出し始めた。
 集まってくる。ぞろぞろ。うじゃうじゃ。大きいのも、小さいのもいる。少年もリーグチャンピオンを目指しているトレーナーなので、レベルにかなり個体差があることも見て取れた。普通、草むらから飛び出してくる野生のポケモンというのは、だいたい似たようなレベル帯が揃っているものだ。
 すぐに分かった。この草むら、普通じゃない。
 立ち上がる、やはり落下の衝撃か、体の節々が悲鳴をあげる。だがそれ以前に、足の踏み場もないほどソーナノたちに取り囲まれて、バランスを取ることもままならない。
『そーなの!』『そーなのっ』『そーなのぉー』『そーなの』
「ここは、ソーナノ島……?」
『そーなの!』
「いや、違うだろ」
『そーなの?』
『ぐーぅばぁっ』
 『そーなの』じゃない言葉をやっと聞けて、少年は顔を上げた。
 空から飛来したペリッパーが、大きなくちばしを摺り寄せ甘えてくる。少年が気を失っている間に、飛べる程度には回復したみたいだ。馴染みの顔を見て少年も、やっと実感がこみあげたきた。どうやら本当に生きているらしい。
「しっかし、不思議だな。てっきり海に落ちたもんだと……」
 くちばしの中に納まっていたバッグを取り、ポケナビを開いて確認する。
 ホウエンマップを起動して、どっと安堵した。キナギタウンはもうすぐそこだ。道中こっぴどくやられた手持ちたちを回復してやることができる。あと一息だな、と笑いかけたペリッパーが、しかし一緒にマップを覗き込みながら浮かない表情をし続けていた。
 もう一度、現在地を示すポインタを確認して、少年も目を瞬かせる。
 海だ。
 ――海の上に立っている。
 落下の衝撃で壊れたか、僻地のあまり正しく機能していないのか。だがこれまでの長い旅路のさなかでも、そんなことは一度もなかった。
 何かおかしい。只ならぬ予感がした。そうでなくとも、確かに少年は、海に突っ込んだはずだったのだ。
 ソーナノの群れを優しく押しのけ、尻尾を踏まぬよう歩み進める。ソーナノたちはぞろぞろとついてきた。鳴き声の後ろに波の音が聞こえた。草むらを出、陸の端まで辿り着く。
 眼下には、見渡す限りに、瑠璃色の海が広がっている。
 低い岩壁の裾には、こぢんまりした砂浜。穏やかな波は白く泡立ちながら寄せ、透明になって引いていく。振り向けば。揺れる木立、草むら、たくさんのソーナノ。その向こうは澄み渡った青い空。建物はどこにも見えない。濃密な海の匂いの風が、顔面に遠慮なく吹きすさんでくる。
 孤島だ。
 小さな島の上にいる。
「……って、ことは……」
 傍らでぐぁ、とくちばしを開くペリッパーを見、ぴたぴたと足音を立ててくるソーナノたちへと、少年は瞳をきらめかせて振り向いた。
「――ここが、『マボロシじま』か!」
『そーなのーっ!』
 ソーナノたちが跳ねながら、元気いっぱいに返事? をした。





 65535分の1。
 誰がどのように計算したのだろうか。その島に遭遇できる確率と言われている。ある日突然、日付を跨いだ瞬間、その島は現れ、きっかり二十四時間そこにあったあと、忽然と姿を消す。――という伝承が定かなのかどうかも、ハッキリしない。幻はあくまでも幻。だが思いがけないタイミングで、冒険者の前に姿を見せる。マボロシじまは、不時の島だ。
「伝説のポケモンより珍しい、見た人は殆んどいないんだ!」
 大興奮で説明する少年を前に、ソーナノたちは首を傾げている。分かっているのかいないのか、でもみんなニコニコして聞いてくれるから、話すぶんには気持ち良かった。
 もうこれは不治の病だろうと思う、少年は根っからの旅人だ。知らないモノ、場所、出会いと冒険の匂いがすれば、どこにでも首を突っ込んでしまう。そういう彼が、人生で一度拝めるかどうかと言われる島に、ロマンを感じないはずがない。キナギタウンを目指す前に噂は聞きかじっていたし、130ばんすいどうを通る時は探してみようと思っていた。だが――本当に上陸できるとは。だって、『マボロシ』の島なんだぞ?
「色んな都市伝説があるんだよ、見つけた人があんまり少ないもんだからさ。グラードンが引き起こす火山活動がどうとか地殻変動がどうとか、レックウザが宇宙から降りてくる時に隕石みたいに降ってくるんじゃないかとか、あとはホエルオーの背中を見間違えたんじゃないかとかさ」
 少年も話を聞いたときには、巨大ホエルオーの背中くらいが合理的だろうと考えていた。だがどうだ。今自分が立っている島は揺れもしないし流れもしない、小さいがきちんと砂浜があり、何より草木が生えている。ソーナノがひしめいている以外に、不自然なところはどこにもない。
 このありふれた小島が跡形もなく消えるだなんて、俄かには信じがたい……だが。
 昨晩、墜落していく少年が最後に眼前に接したのは、島ではない――間違いなく『海』だったのだ。周囲に島らしきものも見えなかった。海に突っ込んだはずなのに島の真ん中で目を醒ました、これはつまり。『海底からこの島が、丁度落下点に隆起してきた』。そうとしか考えられないのではないだろうか。
「なあ、ミュウとかいる? これまたすっごい珍しいポケモンでさ、フジ博士って人があのミュウツーを産み出したのもミュウの遺伝子が元になってるとか言われてるんだけど。マボロシじまにミュウが生息してる、って噂も聞いたんだよね」
 分かっているのか、いないのか。ソーナノたちはきょとんとこっちを見上げたり、顔を見合わせたりしつつ、右へ左へと首を傾げるだけ。まあ分かんないよなあ、と頬を掻いてから、少年はポンと手を打った。
「でもそういえば、ミュウって姿を消したり、『へんしん』が使えたりするんだっけ。もしかしたら、ソーナノに変身してるのかも!」
『そーなの?』
「アッハ、んな訳ないかあ」
 癒される。ソーナノたちはみんな、相も変わらずニコニコ顔だ。そんな顔に囲まれて会話にならない会話をしていると、長旅の疲れもどんどん癒えていくような気がした。


 ちょこちょこついてくるソーナノたちと共に島を散策する。五分もあれば一周してしまえた、本当に小さな島だった。ささやかな木立を覗いてみたり、砂浜に降りてみたり。海と空、果てなく青に染め抜かれた清々しい景色の中に、のんびりとキャモメがゆらめいて、時折ホエルコが潮を噴き上げる。いくつかメノクラゲの赤い目が、あてどなく波に流されていく。マボロシと言われている場所だ、何か特別な道具でも落ちてるんじゃないかと岩壁まで探してみたが、ヒトデマンの一匹も見つからなかった。波と戯れているソーナノたちの呑気な姿を見ていると、何も存在しないことも、この島らしいかな、とも思える。
 先刻、急ぎ回復すべき手持ちポケモンをすべて預けて、ペリッパーを飛ばした。自分を乗せていてはまたサメハダーに襲われかねない、戦力を整えてからこの島を出たかった。キナギタウンはそう遠くない。ペリッパーの翼なら、ポケモンセンターに到着し、仲間を回復させてこの島に戻ってくるまで、二時間もあれば十分だろう。日の入りまでには必ずキナギタウンに上陸できる、というのが、少年の見立てだ。
 主人を残して発つことをペリッパーは不安げにしていたが、平気平気と笑い飛ばした。記憶によれば、ソーナノは攻撃技を覚えない。いまのところ余所者に対して戦意の欠片も見当たらないし、こちらから仕掛けなければ、しようったって何もできないはずだ。
 と、島の東岸に辿り着いたとき、ソーナノたちが一際群がっている場所を見つけた。
「『きのみ』か?」
 上から覗き込んで問いかけると、そーなの、といくつもの肯定。
 萌黄の草原の一部分だけ、土が剥き出しになっている。『ふかふかのつち』と呼ばれる、『きのみ』を育てるのに適した土壌だ。その茶色の真ん中に、きのみの木らしきものが一本、泥まみれで横たわっている。
 この柔らかな土の上に墜落したのだと少年は直感した。そうでなければ、あんな勢いで突っ込んで、こんなにもピンピンしているはずがない。
 折れた幹にかろうじで引っ付いていたきのみを取り上げる。なっていたのは一個だけだが、既に成熟済みのようだ。モンスターボールより一回り大きく、指で弾けば音が鳴るほど固い。クリーム色の外皮から、メノクラゲの目の色に似た組織が、規則的に隆起している。毒々しい真紅は発疹のようにも見えて、どことなく不吉に感じた。
 ミュウの話と一緒に聞いた信憑性に欠ける噂を、少年はふと思い出した。
 ――マボロシじまには、『チイラのみ』が自生している。世界中探してもそこにしか生えない、極めて珍しいきのみである。
 首を回して確認したが、どうやらこの島に自生するきのみはこの一本だけだったみたいだ。
 きのみを持ち上げた少年の右手を、ソーナノたちはじっと見上げている。
「俺が落ちてきたから、折れちゃったんだな。皆で育ててたのか?」
『そーなの……』
 ニコニコ顔のまま、それでもしょげている様子が声色から伝わってくる。そんなに珍しいきのみなら持って帰りたい気もした。だが、彼らの落ち込んだ様子を見ていると、さすがに良心が否と訴えた。
「そかそか、ごめんなソーナノ。そんな顔すんなよ。これ、埋めとけばまた元通り生えてくるからさ」
 手で軽く穴を掘り、丁寧に土をかける。
 こんもりと膨らんだ土をソーナノたちはしばらく見つめていたが、やがてそれぞれ納得したように頷いていた。




 
 散策したり、ソーナノたちと戯れてたりしているうちに、日が暮れてしまった。
 ちりぢりの雲の向こうに太陽は沈み、哀愁に満ちた夕暮れはゆっくりと色を失せていく。昼と夜とを仲介する、朧な顔つきの暮れなずみだ。藍に沈みゆく空と、藤紫を煮詰めたような深い海。
 変わらない波の音を聞きながら、迎えに思いを馳せたが、来なかった。暗みを増していく海の、東の方角、キナギタウンが浮かんでいるはずの水平線は、平らなままで、豆粒ひとつの変化もない。
 空の赤みが薄らぐにつれ、海風が冷たさを増すにつれ、心細さが粟立ってくる。
 ペリッパーにはかなり無理をさせていた。自分を乗せていなければ、と思っていたが、すごいキズぐすりも使ったが。万一、襲われていたとしたら。
「ま、考えても仕方ない、か」
 明日の朝には来るだろう、楽観視以外に出来ることもない。両腕を頭の後ろに組み、それを枕に寝そべる。傍らでニコニコしているソーナノを見上げたとき、少年はふと気づいた。
 朝。
 ――この島に朝は来ないのではないか。
「……なあ、ソーナノ」
 夕刻の長い影が顔に落ちている。逆光に潜む表情の中でも、振り返るソーナノたちはもちろんニコニコしている。
「マボロシじまって、本当に二十四時間で消えるの? もしこの島が沈むんだとしたら、ソーナノたちはどうなるの?」
 ひょこ、と小首を傾げられる。
 彼らの黒い尻尾の、目玉のような白い模様に、何故か見つめられているような気がした。
「……ってか、ってことは、昨日まではみんな海の中にいたワケ?」
『そーなの』
「マジで? エスパータイプなのに海の中でも暮らせるの? それってもう不死身じゃん!」
『そーなのー!』
 ぴょこんぴょこんと跳ねている一匹に釣られて、数匹ソーナノが跳ね始めた。彼らの呑気さを見ていると、考え込んでいることがなんだか馬鹿らしくなってきて、少年も思わず笑ってしまった。
 まあ、なるようにしかならない。そもそも本当にここはマボロシじまなのだろうか? 真面目に興奮していたが、噂はあくまでも噂、幻はあくまでも幻。そっくりそのまま消えてなくなるなんて、あり得るはずがないじゃないか。
『そーなのー』
「そーなのかあ」
『!』
 跳ねていたソーナノたちが、カッとこちらを凝視した。
「ん? なに?」
『そーなの』
「そーなの?」
『!! そーなのーっ!』
 どうやら「そーなの」という音に反応しているらしい。嬉しげに躍っているソーナノたちのかわいさに、こちらまで顔が綻んでくる。
「そーなの、って言って欲しいのね」
『そーなの!』
「そーなの?」
『そーなの!』
 ソーナノの一匹が、ほがらかな顔で、黒い尻尾をふりふりと振った。
 あはは、と笑いかけた喉が引きつり、意思に反した声が出た。
「そーなの?」
 あれ? 少年は目を瞠る。強制的に口が開かされ、先と同じ音を繰り返す。そーなのそーなの、とソーナノたちが喜んだ。
「そーなの?」
『そーなの!』
「そーなの?」
『そーなの!!』
 同じ応酬を四回繰り返して、ようやく解放された。いつの間に『アンコール』を掛けられたようだ。
「ちょっと、やめてくれよォ」
 参ったな、かわいすぎる。どんどん集まってくるソーナノたちのたまらない愛らしさに、数匹まとめて抱きしめた。不安もあるが、この子たちと一緒に居ると、なんとかなるような気がしてくる。ぷにぷにした感触の頬に頬を合わせると、離れたくないなあとさえ思えてきた。こりゃ、かわいさで相手を拘束する、ソーナノの『かげふみ』ってとこだろう。
 マボロシじま、いいところだ。のんびりしてて、賑やかで。あわや海の藻屑と化していた自分を助けた恩人たる島、だけれどきっと、もう二度と、願えど会えない、不時の島。
 むぎゅむぎゅと押し寄せてくるソーナノたちに、潰されそうになる。翌朝を迎えられないかもしれないなんてことは半ば忘れて、少年は笑い声をあげた。
「ソーナノたちも、俺に帰って欲しくない?」
『そーなのー!』
「そーなのかあー」
 やべぇ、口癖、移っちゃった。
 少年の胸の中に、心細さは、いつの間にかなくなっていた。
 




 夜。
 木立をうろつき、枯れ枝を集めてなけなしの火を焚いた。少し焚火を離れれば、途切れ途切れの雲の間に、壮絶な星空が見えていた。ソーナノたちは草むらで寄り添いあって眠っている。少年が寝袋を敷いた周りにも、数匹が陣取ってすやすや寝息を立てていた。もし今晩、本当に島が沈んでしまったらどうしようか。考えようとしたが、答えなど出るはずもない。考えるのをやめて眠ろうとしたが、やはり眠れるはずもない。
 ソーナノの目の形にも似たほそっこい月を見上げていると、腹が鳴った。非常食も底を尽き、胃の中は既に空っぽだ。
 そういえば、この島には食えそうなものが見当たらない。ソーナノが草食だと言うなら分からない話でもないが、一体何を食べて暮らしているのだろう。見てない所で、釣りでもしてるんだろうか。
 いや、案外、何も食わなくても暮らしていけるのかもしれない。本当に不死身だったりして。
 不思議なものだ。夜の真ん中で、少年は一人感慨に耽る。マボロシと呼ばれる所以もそうだが、孤島にソーナノが群れで暮らしていることも、他になんのポケモンも棲息していないことも。ここにしか生えないきのみが一本だけ、ぽつんと自生していることも……
 ……きのみ。
 身を起こして、振り返った。
 島の東岸、ふかふかのつちの中央、こんもり膨れたその下に、チイラのみが埋められている。
 食えるのだろうか。いや、そんなことよりも。
 とても珍しいきのみだ。ここにしか生えていない。
 静けさに囚われた心の中に、ぼっと擦られたマッチのように、とある幻想が浮かび上がった。
 のちに、誰かに今日の体験を語ることがあったとして、一体誰が信じるだろうか。
 もうこれは不治の病だろうと思う、少年は根っからの旅人だ。知らないモノ、場所、出会いと冒険の匂いがすれば、どこにでも首を突っ込んでしまう。そういう彼が、人生で一度拝めるかどうかと言われる島に、ロマンを感じないはずがない――そして、その末に注目を浴びたいという欲望が、リーグチャンピオンを志す胸の内に、存在しないはずがない。
 チイラのみを持ち帰れば、マボロシじまに上陸した何よりの証拠になるだろう。逆に証拠がなければ、全て妄言として、後ろ指を指されるのではないだろうか。
 折れたチイラの木を見て、ソーナノたちはガックリと落ち込んで見えた。あの時感じた憐憫は蘇らないでもなかったが、寝てる今しかチャンスがない、という焦りの方が、少年の中で勝ってしまった。
 そっと寝袋を抜け出し、忍び足で歩き、ふかふかのつちへ膝をつく。丁寧に土をかけた同じ手で、丁寧に土をどかし始めた。背後で炎が揺れるたび、影はぬるぬると形を変えて、見ているぞ、と言われているようで、肺が竦んで汗が沁み出た。闇の中、耳障りな波音だけがどうどうと轟く島の端で、背徳感に支配されたが、それだけだった。ソーナノは自分を攻撃できない。何も恐れることはない。
 チイラのみは成長が遅い。半日埋まっていたきのみは、そのままの形で埋まっていた。泥を拭い、ポケット奥深くに無理矢理捻じ込む。それから昼間と同じように埋め直した。
 焚火の熱が、やたらと酷に感じられる。終わった。無事に済んだ。思わず息をつきそうになる。額に滲んだ汗を拭い、立ち上がり、少年は振り返った。
 不気味に踊る焚火の向こうで。
 ニコニコした目が、寄り添いあって眠りながら。


 こちらを見ていた。


 ……いや。跳ね上がる心臓を抑える、眠っている。眠っているだけだ。眠ったまま、たまたまこちらを向いているだけだ。笑った目元が、三日月みたいにほっそりしているから、寝てるんだか起きてるんだか分からないが。眠っている。間違いない。見られてなんかない。みんな、なぜか、揃いも揃って、こちらを向きながら眠っているが、多分きっと気のせいだ。
 時間を確認したくなる。今は何時だろう。ポケナビをペリッパーに持って行かせたのは愚策だった。日付が変わるまで、あとどのくらいだろうか。
 黙って寝袋に戻ろうとして、そのとき、少年は目を見開いた。
 見開いた目を、ぎらり照射され、すぐに顰める。
 真っ暗闇の海の中を、強烈な光の玉がひとつ、こちらに向かって進んでくるのだ。
 漁船だと気付いた。焚火の明かりを見て不審に思ったに違いない。
「おおい! ここだ!」
 大声で叫び、少年は両手を振り回した。ソーナノたちがもぞもぞと身を起こし始めた。
 船はまっすぐこちらへやってくる。助かった。助かるんだ。寝袋をぐるぐる巻き上げて荷物を引っ掴む。砂浜へ降りよう。乗せてもらって、キナギへ渡ろう。世話になった、じゃあね、とソーナノたちに声をかけ、少年は砂浜の方へ駆け出した。
 駆け出そうとした。
 駆け出せるはずだった。
「……あ、れ」
 足の裏が地面にひっついて、ぴくりとも動かすことができない。
 足元を見下ろした。ニコニコと見上げるソーナノと目があった。ソーナノと目があったあと、その尻尾の、目玉のような白い模様と、目があったような錯覚を覚えた。
 『かげふみ』だ。
 影を、踏まれている。
「……あ、離れたくないって? 困っちゃうなあ。でも俺、そろそろ帰らないと」
 言えど、ソーナノは、変わらずニコニコと見上げているだけ。
 ニコニコ。ニコニコと。見上げている。無数のソーナノたち。にじり寄ってくる。最初と同じだった。足の踏み場がないほど囲まれていた。その足元に、あの無数の白い目玉が、じっと少年を見つめていた。
 見つめるだけだ。
 あの愛らしい鳴き声を、一匹としてあげようとしない。
 ぞわぞわと寒気が背筋を這い上がる。蹴り飛ばしてでも進みたい。だが、足が、足が動かない。
「……お、おい……なんか言えよ……ホラ」
 頬を引き攣らせ笑いながら、少年は言った。
「そーなの? ってさ」
 一瞬だった。
 島が、




 沈んだ。




 どんな音がしたろう。どんな衝撃だったろう分からない、水飛沫を見て焚火が掻き消えて次の瞬間には海の中に呑まれていた。両手を掻いたが進まなかった月と星と漁船の光はあっというまに遠ざかっていった。足が地面にくっついて、もがけど足掻けど離れなくてどこかへ向かって突き進んでいく。なぜだろうまたロケットを思った。みるみるうちにすいこまれる。未知の宇宙へ向かっていく。そこには酸素がない。生きられる場所じゃない。窮地のうちで閃いた。光の届かない深海では影という概念さえ消え失せる。『かげふみ』は効力を失い足は離れてくれるだろう、それまで持ちこたえれば息を止め続ければ或いは助かるかもしれない、深海まで辿り着いたとき水圧で体がどうなるとか一瞬だけ過ぎったイメージは、忘れることにした、ああ。遠い。空が。空が。沈みゆく島がどうなっているのかよく見えなかった。草むらが木立がどうなっているのか全然見えなかった。だがソーナノたちだけは、足元のソーナノたちの、ニコニコ笑った無数の顔と、それと同じ数ほどの、尻尾のあの白い目だけは、不思議とくっきり見えていた。
 まさか。
 本当に。
 不死身だとでも言うのだろうか。
 たくさんのニコニコ笑った顔が迫る。
 ソーナノの一匹が、ほがらかな顔で、黒い尻尾をふりふりと振った。
 技名が脳裏に過ぎる。


 『アンコール』


「そ」
 の音さえ出たか分からない。強制的に開かされた口から大量の海水が