風の日の桃色ふわり

須合ジョエル
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」
 鳴き声のような風の音。それから、風の音に返事をしているみたいな、鳴き声。
 風は、街の中心にちょこんと盛り上がった丘をめがけて集まってきて、ぶつかると上を――空をめざす。一年で一番風が吹く、風の日の上昇気流。
 鳴き声は、その高くない丘のてっぺんに置かれた袋の中からだ。風の集まりを感じてソワソワしている。もう、そろそろだ。

 ひときわ強い風が四方から迫る、その瞬間――。
 袋の口が開けられた。
 中から飛び出す、桃色。はじけ飛ぶ、風とも声ともとれる音。
 青く澄んだ天空に、まるでもくもくと膨らむ雲、あるいはブクブクと泡立つシャボンのように、大量のハネッコが広がる。上昇する。
 歓声と拍手に押し上げられるようにして、ハネッコたちは空一面をピンクで覆った。





 朝のコーナーが終わり、紗枝が事務所に戻ってくる。紗枝はまず、希のもとにやってきて「エゴサなんてするんじゃなかった」と笑った顔で嘆いた。
 今日のテーマはSNSだった。紗枝は番組中、リスナーからの要望で自分の名前を検索したのだった。ずらりと並ぶであろう、媚びも遠慮もない、世間の声の数々――彼女の予想と実際の結果はしかし、まったく違うものだった。
「老けたとか、独身年増とか言われても別に仕方ないって思えるけどさ」
 仮にそんな書き込みがあったら、それはそれでやかましくなっただろうと希は思う。
「まさかの、無。まったくの皆無。良いことも悪口も書いてないなんて、そっちのほうが傷つくわあ」
 可聴域のごく限られた、地方のローカルラジオのパーソナリティなんてそんなものである。希のベビーシューを勝手につまんで、口に放り込む紗枝。
「何も出ないことを知ってて、紗枝に検索させたのね、きっと」
 悪質な者もいるものだと思うが、こんな小さな局の(紗枝には悪いが)たいした立場でもない人間へのピンポイントの嫌がらせに、希は心の中で笑ってしまう。そんなことで一体何が満たされるのか。
「希のことも検索したけど、何も出なかったよ」
「そりゃあ私は裏方だし、当たり前でしょう」
 ンズタタタとコピー機が乱暴に嗤った。

 希の仕事は、簡単に言えばパーソナリティ以外だ。番組の原稿を書いたり、番組表を新聞社に送ったり、番組中に流すCMの営業に行ったり。もちろん番組以外のこともおこなう。機材のチェックに、ホームページの管理、地域のイベントの情報収集、エトセトラ。
「希ちゃん、風の日の情報って来てるかしら」
 局長の和寿子が入ってきて、希のベビーシューを勝手につまみながら聞く。彼女は高齢ながらも背筋の伸びた、柔和な女性である。希はその印象を、和寿子が意図して演じているものだと考えているが。
「そういえばそろそろだよね、風の日」
 言いながら紗枝は希のベビーシューを勝手に――すでにベビーシューは希のものではないらしい。
「まだ、それらしいものは送られてきてないですけど」
「おかしいわね。いつもならもう、ラジオでも新聞でも話している頃なのに」
 この街には一年に一度、風が吹く。周囲の地形の関係で、街の中心に集まるようにして吹く特別な風だ。現象自体はありきたりなものなので全国的には注目されていないが、街では「風の日」と呼んで親しんでいる。その日は風の集まる丘に人も集まり、出店やささやかなイベントがおこなわれる。
「希ちゃんは風の日、はじめてなのよね」
「ええ。ハネッコを飛ばすことくらいしか知らなくて」
 越してきて半年の希は、風の日のことは紗枝から聞いた範囲でしか知らない。あそこの商店の持ってくる玻璃の笛の音がいいとか、どこの看板が真っ先に吹き飛ばされるかと一部で賭けがおこなわれているとか、――集めたハネッコを一度に飛ばすとか。
「今年からは、止めになるかもしれないわね」
 はじめは和寿子のその言葉の意味がわからなかったが、すぐに希は思い当たった。

 ある村では、毎年川にトサキントを放流していた。豊穣祈願だったか雨乞いだったかと希は思い出せずにいるが、それでもその地域といえばトサキント流しであると、誰もが知っているほどの有名なイベントだった。
 しかし今年は直前で取り止めになった。SNSで、環境問題を訴える投稿が広まったからである。
 同じトサキントでも、例えばA川のトサキントとB湖のトサキントでは遺伝子の構造が異なる。A川にB湖のトサキントを放流すれば、交配によりA川の環境に適していた遺伝子は壊され、結果トサキントはA川から姿を消してしまう。――絶滅である。
 これまでにこの遺伝子汚染が取り上げられたことはなく、村はインターネットにありがちな難癖と考え、イベントを強行しようとした。そのことが、かえって人々の反感を買ってしまった。村ばかりでなく毎年イベントに協賛していた地元メディアにも批判が集まり、トサキント流しは中止に追い込まれたのだった。

「昔はこの辺りにも、野生のハネッコがたくさんいたわ」
 しかし今ではほとんど見られず、風の日に飛ばすハネッコも市がどこかから大量に買ってきている。とはいえ、ハネッコの減少を遺伝子汚染のせいだと騒ぐ者はいない。この街もずいぶんと都市化が進んでおり、原因としてはそっちのほうが間違いなく大きいだろう。
「……ハネッコが減った理由が何であっても、このタイミングで放流みたいな真似できるのかしら」
 よく見ればハネッコのかたちに見えなくもないベビーシューを目の高さまで持ち上げる。よそからわざわざ運ばれてきて、川に流されたり空に飛ばされたりするポケモンたちは、それが自分たちの種の存続に好ましくないことに気づいているのだろうか。どこか勘の鋭そうな彼らなら、わかっているかもしれないと希は思う。わかっていながら、しかしどうすることもできないのだろう。

 ンズタタタとコピー機が身震いした。市から報道機関に送られるイベント情報のFAXだった。
「噂をすれば」
 希が手にとって(左右からは紗枝と和寿子が覗き込んで)その風の日についての案内を読む。風の日は例年通り――ハネッコ飛ばしも含めて――開催されるとのことだった。
「ふうん、やるんだ。けっこう強気じゃん」
「トサキントのときみたいに、うちまで批難されたりしないかな」
「うちはうちで天敵のオニスズメでも集めて、ちゃっかり一緒に飛ばしてみようかしら」
 和寿子の言葉に、思わず二人は彼女を見つめてしまう。この人ならやりかねないと、紗枝も思っていることだろう。対する和寿子はそんな反応さえ予想していたかのように微笑んだままだ。希は急いでFAXに目を戻す。
「あれ、ここおかしいわ」
 希が指さしたのは、情報解禁日。だいたいどんな情報でも――例えば地元の小学校のきのみ取り学習の話題でさえ――報道してよい日にちは決められている。ハネッコ飛ばしのそれは、風の日の三日前だった。
「確かに変だ。毎年恒例のイベントなのに三日前解禁なんて遅すぎでしょ。間違ってんじゃないの」
「当日近くまで余計な波風を立てたくないのね、きっと」
 市も今年のハネッコ飛ばしには慎重になっているのか。和寿子の言う通り、何かにつけて騒ごうとする人々のセンサーから逃れるためであることが見え見えだった。ギリギリまで話題にしなければ、いたずらに攻撃される危険を減らせると考えているらしい。
「なんだか、やりかたがズルい感じね」
 地元のイベントを極めて好意的に扱わなければならないローカルラジオの息苦しさに、希は嫌気がさした。

 嫌気ついでに魔もさしたのかもしれない。
 希は市の広報課に来ていた。そのこと自体はさしておかしなことでも何でもない。風の日の出店や駐車場のことなど、担当者から直接聞いておきたいこともたくさんあった。
 職員の須田とは以前から別のイベントなどで世話になっていて、顔見知りだった。とはいえ親しいというほどでもない。誰が相手でもそうであると見せつけるかのように、彼は殊更に事務的な態度で希を迎えた。
「第二駐車場が拡張工事で利用できない点以外は、前年とほとんど変わりはありませんね」
「私は今年がはじめてだけど、会場には局長も他の者も来ますから。滞りなく進行できると思います」
 当日は局の人間も駆り出される。喋り慣れているパーソナリティは司会進行役にうってつけだし、機材も市より民間の局のほうがいいものを揃えている。
「ところで須田さん」
「なんでしょうか」
「遺伝的多様性ってご存知ですか」
 えっ、という声。
 イデンテキタヨーセー。まるで聞いたことのない、漢字も咄嗟に浮かばない――あるいはよく聞き取れなかったという態度である。けれども希は、須田の顔が一瞬こわばったのを見逃さなかった。この日は、風の日のことは話しても、ハネッコのことだけは(希が言い出さなかったこともあり)まったく触れてこなかった。
 今ここで希が、なんでもないと言えば、彼の望み通りに平和に打ち合わせが終わると思いながら、
「トサキントの騒ぎの件は、こちらでも当然気にかけているのでしょう?」と続けた。

 ほかの職員の視線を感じながら、希は愉快な心地に浸っていた。仄暗く冷たい愉悦。
 須田の説明はこうだ。環境の変化が著しい水中に棲まうポケモンと、主に空中を流離っているポケモンとでは必要な配慮の度合いが違う。また、今のところハネッコ飛ばしを問題視する声は上がっていない。それほど敏感になる必要はないとみている――。
 まるで用意していたみたいに流暢だった。誰もがこちらに聞き耳を立てている空間で、敏感になる必要はないと彼は言う。希は噴き出しそうになった。
「そもそもどうして毎年ハネッコを飛ばしているのかしら。トサキント流しみたいに、豊穣祈願か何かあるの」
 すでに口調はくだけ、ラジオ局の人間としてではなく世間話に来たただの中年女になっていることを自覚しながら、希は攻撃を――そう、これは攻撃に違いないわ! と心を躍らせながら――続けた。
「前市長が、丘でハネッコの群れが舞い上がるのを見たのがきっかけだと聞いています。特に名産があるわけでもない、何もないところだったので、名物にしたかったのだと」
「それじゃあ、たくさん宣伝しないといけないわね。うちでも大々的に取り上げましょう」
「あ、ああ……そうですか。ありがとうございます」
「そうだわ。それで、須田さんに送っていただいたFAXのことだけど――」
 報道解禁が三日前になっているのは何かの間違いでしょう、と聞くと彼は、
「いえ。それはどこのメディアにも同じ日でお願いしてありますから」と早口で言った。
「名物にしたいのかコソコソやりたいのかどっちなのよ!」
 ばかにしたように笑いながら、希はフロアの全員に聞こえるような大声を出した。





 それから風の日まで、特に何も――どこかが報道解禁日を破ったり、ギリギリまでハネッコ飛ばしの話題が出ないことを不審がる声が上がったり、反対運動があったりというようなことは――起こらなかった。希にとってそれはひどく拍子抜けだった。あまりにも何事もなく、その日はやってきた。
 いい天気だった。
 程よく風が吹き抜けて、外で機材を準備していても暑くなかった。紗枝がマイクテストを兼ねて、出店の人達に挨拶をしている。ちょっとした冗談もまじり、遠くのほうで笑いが起こる。和寿子が市のお偉方と穏やかに談笑している。小さな子供たちが機材と希を囲んで物珍しそうに見てくる。一仕事終えてから、持ってきたベビーシューを子供たちと食べた。出店のおじさんが焼いたきのみを差し入れてくれた。
 そんなこんなで気づくといつの間にやら大きな袋を運ぶ作業服の男たちがやってきていた。あの袋に、ハネッコが詰まっているのだ。

 風が強くなってきた。

 鳴き声のような風の音。それから、風の音に返事をしているみたいな、鳴き声。
 風は、街の中心にちょこんと盛り上がった丘をめがけて集まってきて、ぶつかると上を――空をめざす。一年で一番風が吹く、風の日の上昇気流。
 鳴き声は、その高くない丘のてっぺんに置かれた袋の中からだ。風の集まりを感じてソワソワしている。もう、そろそろだ。

 見物客はそこそこといった感じで、出店も賑わっているようだった。丘の中心からやや離れるようにして、円で囲むように人が集まってきている。市やラジオ局の面々は中心に近い特等席にいる。
「ねえ、希ちゃん」
 和寿子に話しかけられて振り向き、希はぎょっとした。彼女はオニスズメを一匹抱いていた。まさか本当に一緒に飛ばすつもりなのか。他にもたくさん用意しているのではないか――。希の想像をよそに、和寿子はまったく別のことを話し出す。
「あの辺りが、見物するにはいい位置よ。いってらっしゃいな」
 一番の特等席にいながらそんなことを言い出す和寿子の意図がわからないまま、希は言われた通りに移動する。するとそこには須田がいた。一瞬目が合って、彼のほうが先に外した。気づかなかったことに徹底すると決めたようだ。彼は妻子と共に来ているらしかった。
 そのとき希は気づいた。見物客の大半が、なんとなく見覚えのある者ばかりだった。――須田と同じ、役所の職員らだった。
「さあて、メインイベントのお時間がやってまいりました!」
 紗枝のテンションの高い声がマイク越しに聞こえてくる。市長と紗枝が、丘の上の袋のそばに立っていた。市長が袋を開けるらしい。
 びゅうう、と大きな音が遠くで鳴っている。そろそろですか! と勢いよく訊ねる紗枝に、市長は笑顔で首を横に振る。頃合いを見計らっている。
 また、びゅうう。
 市長はこの風に決めたようだった。袋の口に、手をかける。あの袋が開けられれば、どこから連れてこられたのかもわからないハネッコたちが、この街の空を飛び交うことになる。この街で生きるのに適した遺伝子が、無邪気に、壊される。


 ひときわ強い風が四方から迫る、その瞬間――。
 ……市長が風に押されて丘から転げ落ちればいいと、希は思う。ハネッコに特別な思い入れはないが、そんなことを願う。

 袋の口が開けられた。
 ……これでおしまいだと、希は思う。またこの街のハネッコが減るわねと、心の中で呟く。

 中から飛び出す、桃色。はじけ飛ぶ、風とも声ともとれる音。
 ……この音は悲鳴なのだと、希は思う。成す術もなく、自らの生態系を破壊せざるを得ない自然たちの慟哭なのだと。

 青く澄んだ天空に、まるでもくもくと膨らむ雲、あるいはブクブクと泡立つシャボンのように、大量のハネッコが広がる。上昇する。
 ……まるで劇物の液体が湖に溶けていくようだと、希は思う。希の想像した液体は、美しい色とかぐわしい香りを放っている。

 歓声と拍手に押し上げられるようにして、ハネッコたちは空一面をピンクで覆った。
 ……このとき和寿子の腕の中で完全に怯え切っていたオニスズメを目にして、希は想った。増えれば増えるほど逆に小さくなっていく――反比例する存在のことを。





 オニスズメはつまり騒ぎ立てる者だったのだと希は考えてみる。
 あまりに多数の賛成派に――あまりに大量のハネッコに圧倒されて声も出なかったオニスズメ。どちらかが増えれば増えるほど、もう片方は小さく小さく萎んでいく。増加にしても減少にしても、動き始めたら加速度的に勢いがついて止まらない。
「市から、一昨日のハネッコ飛ばしの投稿にいいねをお願いします、ですって」
 新しく購入した鳥かごを組み立てながら、和寿子が言う。そばで彼女の様子を静かに見守っているオニスズメにはそんなもの要らないだろうと希は思う。
 市の広報用のSNSを開くと、真下から撮られたハネッコたちの写真がすぐに現れた。いいねの数はさほど集まっていない。
 有名なトサキント流しとは規模が違いすぎる。負の比例ではなく反比例を思い浮かべたのは、そのためだった。ハネッコ飛ばしは、そもそもの(反比例の説明にしばしば用いられるような)面積が小さかった。良い方でも悪い方でも、どちらに転んでも話題になどならない。
 検索しても何も出なかった紗枝と同じで、褒められも貶されもしない、小さな存在。そんなものに希は、淡く、仄暗い期待をしていた。批判が飛び交うお祭り騒ぎになればいいと、どこかで願っていた。

 いいえ、そうじゃないわ。希は考える。
 須田との打ち合わせの中で、これは攻撃なのだと歓喜したあのとき。希は確かに、何かを攻めることの愉しさを、知ってしまった。それは対象の規模に関係しない。
 そして最後には後悔することも、希は思い知った。
 今思えば、ばかなことをしたものだ。今後用事があったときに、どんな顔で須田に会えばいいのか。どんな顔で役所に足を運べばいいのか。
 自分の満足のためだけに起こした行動の無意味さを、希は今になって痛感している。
「希ちゃん、面白いものを見つけたわ」
 市の投稿に入れられたコメントを和寿子に見せられたとき、だから希はひどく動揺した。
 ……ハネッコはどこから買ってきているのか。いくらだったのか。その予算は何から出ているのか。なぜ、自分の開示請求(この人物はすでに、役所に情報の開示を求めたことがあるらしい)がはねのけられたのか――。
「こっちはちょっとだけ話題になりそうねえ」
 ねえ、と改めて言いながら、鳥かごでむっつりと黙り込むオニスズメにあれこれとちょっかいを出している和寿子。希の中で、何かが膨らんでいく。イメージしたのは風の日のハネッコたち。上から必死で抑えようとしても、吹く風の力には逆らえない。端から端から、一匹、また一匹と、こぼれるように浮き上がる。

 私たちの納めた税金をごまかすなんて許せない。
 いいえ違うの、騒ぐ理由を作っているだけ。何も見なかったことにすべきだわ。
 そうして気づかないふりを続けるから、ハネッコは減るし世の中は悪くなっていくのよ。
 その正義感は自分を満たすためのものでしょう。ほかの人にすべて任せておきなさい。
 きっと後悔するんだから。

 ……私は一体、どうすればいいの?

「痛っ」
 和寿子の短い悲鳴に、はっとした。
 彼女の指先からは血が垂れていた。オニスズメが鳥かごの中で羽ばたいていた。
 オニスズメはその後、いつまで経っても静かにならなかった。