さかな

東 利信
テーマB:「ふじ」
編集済み
 私は手を置いた。この話をどのように始めたら良いのかわからないのだ。たった一、二角の平仮名をつらつらと並び立てたところで、読者であるあなたに私と同じ風景を見せることができるとは思わない。率直に言って、私の元に訪ねてきてくれるのであれば、同じ感情に揺さぶられることだろう。

 インクが飛ぶから離れていろ、という言いつけを守らないのが彼らである。自分たちが暇になれば必ず、こうやって彼の"仕事"を邪魔しに来るのだ。
 彼、東は長たらしくため息を吐き、べっちんのような手触りの腕を抱き寄せた。首元に鼻を埋め、肺いっぱいに空気を吸った。太陽の匂いがする。

「博士、私は太陽ではありません」
「隠喩だよ、隠喩。小説家はいつでも夢想家でなくてはいけないんだ。というか、勝手に人の心を覗くのはやめなさいと言ったのは何度目だと思う」
 すん、と小さく鼻を鳴らした。東の腕をぬるりと抜けて、音もたてず華麗に着地する。振り返った表情が心なしかいつもより不服そうに見えた。
「一〇〇二度目です。蛇足ですが、エスパーポケモンに読心を禁止するのはナンセンスです」
「お前は小説家になった方がいいな。僕の一番弟子にしてあげよう」
「さらに蛇足ですが、博士は小説家ではなく物書きです」
「つれないねえ」
 エスパーポケモンがみんなこんなに淡白な性格なのだろうか。もしそうだとしたら今後のために味の濃いタイプでも育ててみようか、と考えたところで「味の濃い」とはなんなのだろう、とフリーズしてしまった。ここまで計算づくしだと本格的に博士として活動した方が良いかもしれない。「ポケモンにおける罪深さとは」ーー。

 東は小説家である。端的に言うと未だに作品が商品として世に出たことはなく、ただ趣味として文字を連ねる日々を送っている。インターネット上でのコミュニティや創作物を自由に投稿できるサイトでいくつかチャレンジをした事はあるものの、期待したような反応は得られなかった。東は悩んでいた。 「進化の瞬間に見られる芸術性を物語にしたい」 この世界で一番美しく、神秘的で、センチメンタルになれる進化は、東にとって夢であり、希望であり、望郷であった。そのため、毎回自分の作風を進化で縛り上げ、ポケモンが持つ逞しさの象徴であるバトルには見向きもしない。ポケモンが登場する物語においてその逞しさを表現しない小説は、所謂異端とされているのである。
 東はオスのニャオニクスとともに暮らしている。このニャオニクスもかつては小さなニャスパーであったが、東の献身的な世話と愛情に応え、つい先日進化を遂げた。もちろんその時は執筆が捗り、ほんの数日のうちに宝石のような小説が完成したが、作品発表を交渉した全ての出版社にことごとく批評され、断られた。この世にとって、日常的なポケモンの物語は泡沫であり、雲のようである。それを掴もうとする命知らずな出版社は、大層な物好きと言えるだろう。 しかし東は諦めてはいなかった。何とかしてこの作風を世間に知らしめたい。生きることを許してもらえない命を、たとえ自身の親指が折れてでも生かしてあげたいと強く願った。そして新たに迎え入れたのがニャスパーである。

 ニャスパーは古い記憶を思い出していた。まだ人間の手のひらほどの大きさしかなかった頃、頬を撫でてくれた指を。癖毛をトリミング用の櫛で梳いてくれた暖かさを。睫毛の長い瞼をゆっくり開くと、窓辺から差し込んだ陽の光が痛い程に目の奥へ飛び込んできた。少し離れたところへ目をやると、青いニャオニクスが丸い猫ベッドの中で長くなっているのが見えた。部屋を見回す。こんなに柔らかい日光が溢れているというのに、あの人はどこへ行ったのだろう。ニャスパーはベッドから這い出て猫用扉から部屋の外へと出た。
 部屋の外の空気は水色で、喉を通り肺に染み込んで体の一部になっていった。見るもの全てがニャスパーよりも高いため、見上げて歩いていると足元が揺らめいて、水溜りに落ちる感覚でひやりとする。大丈夫、まだこの肉球は踏みしめてくれる。 やや暫く壁を這うようにして歩いていると、甘くいい匂いがニャスパーの鼻をついた。はっとして見上げるとあの人の後ろ姿と、何やらせかせかと右往左往しているのが見えた。
「はかせ、」
 長い間声を発していなかったせいか、寝起きのまま歩いてきたせいか、ニャスパーの口から出た言葉は掠れてしまう。それでもあの人は気づいてくれた。振り返り、その小柄な姿を捉えると口を大きく緩ませる。
「ニャスパーか、一人で来たのかい」
「はい、はかせ、いなかったから」
「君はいいんだよ。ニャオニクスもいただろう、すぐに戻ろう」
「はかせ何してたのですか」
 これかい、と東は手元にある小麦色のプレートを拾い、ニャスパーの口元へと運んだ。甘いにおいがさらにニャスパーを包む。
「クッキーを焼いてたんだ。もちろん、ポケモンも食べられるように薄味にしてある」
 ありがとうございます、とすべて言い終わる前に、東にクッキーをくわえさせられ言葉に詰まった。もぐもぐと口だけを動かして少しずつ頬の中へ押し込んでいく。 なあニャスパー、と東がニャスパーの瞳を覗き込んだ。
「僕が君をうちに迎えてから、ずっと思っていた事を話そうと思う。僕は僕の小説を完成させるために、進化の素材である君が必要だった。それは君自身も分かっていることだろう」
 こくり、と力強く頷くと、いい子だと頭を撫でてくれた。
「でもな、ニャスパー。僕が今思っていること、感じていることを話すとすれば、僕は君を進化させたくない。させたくなくなったんだ。これは僕にとっては事実だけど、君にとっては僕がついに参ってしまったと思うかもしれないが」

「君の瞳の中に魚が見えるんだ」

 エスパーポケモンの世界ではある暗黙のルールが存在する。「エスパーポケモンは感情を大きく表すと魔力がなくなる」というものだ。実際のところ、彼らに感情が無いわけではなく、一般的なポケモンたちと同じように日々喜怒哀楽を強く感じている。それでも、いつから存在したのかもわからないほど長年言い伝えられてきた伝統、しいては脅迫概念にふん縛りにされ、笑うことでさえ猿轡を噛まされているのだ。そしてそれはこの小さなニャスパーにも例外ではなく、その心の中では爆弾を開いてしまったような、聞いてはいけない秘密を知ってしまったような、群青の感情を感じつつも、驚くことも泣くことも怒ることもできぬまま突然の告白に狼狽えていた。
「ニャスパーは進化すると瞳の色が水色になるだろう。僕は君の、その藤の瞳の中を悠然と泳ぐ小魚を見た。こうして見つめあっている間にも何匹かさまよっているのが分かる。僕は小魚に惹かれたんじゃなく、藤の魚を愛しているんだろうと思う」
 そして君自身をね。視界が透過されたエレベーターのように上下した。ニャスパーは目をそらすことができなかった。
「さあもう部屋に戻ろう。クッキーが冷めてしまうし、ニャオニクスは君がいなくて泣きべそをかいているかもしれないぞ」
 東は腕の中にすっぽりと収めたニャスパーの癖毛をいじりながら、柔らかな首元に頬擦りをした。視界が前後に進む感覚が端のほうで見えるが、目を動かすことができないままニャスパーは掠れた声ではいと答える。ニャオニクスは泣いていないだろう。魔力がなくなるのを恐れて。

 嵐が見える。黒く籠った海の上を歩いている。吹き晒す海水の暴風が目に入る度涙が零れる。それでもこの瞼は閉じることができない。もしかしたらあの人が来てくれるかもしれないから。あの人は大きな長い腕を突き出して、きっと胸の中に迎えてくれる。そう思った時だった。前方の海面から一千万の藤色の小魚が飛び出し、ニャスパーの目の奥にーー。
 飛び起きると小さな心臓が痛いくらいに鼓動していて、身体中から気味の悪い冷や汗が溢れていた。息も切れ切れのまま違和感を感じて、目元を触ると水が零れていた。これは涙なんかじゃないんだ、とニャスパーは震える手で拭った。
 博士はぼくを進化させたくないんだ。
 ぼくは博士に拾ってもらえなかったとしたら、今頃道路の道端に咲く雑草の肥やしになっていたかもしれない。
 ぼくは博士に言い尽くせないほど感謝しているし、博士を愛している。
 博士のかたえくぼがとても好きだ。
 読心をしても分かる人のよさが大好きだ。
 博士のためになにかをしたい。それが進化なら、ぼくは魔力をあげるために感情を捨て去ってしまっても構わない。そう思っていた。
 しかし現実は野蛮だった。 進化が博士のためにならないなら、何が残るのだろう。
 ぼくは必要なのか。 博士はぼくがここに来て、幸せだったのだろうか。 涙があとからぼろぼろと落ちる。嗚咽を抑えるのが必死だった。博士が望まないなら、進化なんてどうでもよかった。でも、なにができるんだろう。 それにぼくにはまだ言えていないことだってある。 それは幻想のようで、でも確かにそこにいて、その原因もわかっている。

「博士のまわりに藤の魚がみえるんだ」

 昨日のからっとした晴天とはうってかわり、今日は朝から雨がしとしとと降り続いている。古民家を安く買い取って住居にしているので雨漏りが心配だ。とりあえずそんな事態になったらガムテープででも補強して、晴れた日に屋根に登ろう。ニャスパーとニャオニクスを連れて。 東は万年筆のキャップを開けたり閉めたりしながら、窓の外で降り続くミルク色の雨を眺めていた。美しいものを書こうと思うと、自分の心をまず浄化しなければいけない気がして、雨でも見て落ち着こうと思ったが大した原案は浮かんでこなかった。迫り来る期日に追われるわけでもなく、なんとなくに物書きをしているので気分的には余裕があると言える。万年筆を原稿の上に投げ出し、はあとため息をついて背もたれに体を預ける。ニャオニクスで癒されようと思ったが、彼がいつどこで何をしているのか、同居人である東でさえわからないので呼びようがない。
「うーん」
と唸った。昨日ニャスパーに魚の話をしてからというもの、ニャスパーの様子がおかしいことに気がついている。東は読心術を持ち合わせていないので、あの子が何を考え何を恐れているのか、一粒でさえわからないのが歯がゆかった。ニャスパー、と小さくこぼした時だった。
「はかせ、」
 猫用扉から身を捻りつつ灰色の毛むくじゃらが東の目の中に入った。てくてくと東のすぐ側まで寄ってくると、日光のにおいがした。
「ニャスパー、どこ行ってたんだ。丁度君に会いたくなったところだよ。」
 おいで、と手を伸ばしたがニャスパーは少し俯いたまま微動だにしない。流石に心配になった東も手を引っ込めた。ニャスパー、と顔を覗き込んでみた。
「はかせ、ぼくはあなたに言わなければいけないことがあります。それがたとえどんなに突拍子もないことであっても、笑わないで聞いてくれますか」
「もちろん。話してごらん、ニャスパー」
「昨日はかせは、ぼくの目に魚が見えると言いました。そして進化させたくない、ということも。ぼくは進化なんてどうでもいいんです。強くならなくてもいいんです。でも、あなたのお役に立ちたい。ぼくを生かしてくれたあなたに、お返しをしたいんです」
 ニャスパーの声が震えているのが分かった。それでも東は話を最後まで聞いてあげることが、ニャスパーに対する愛だと感じた。
「魚が見えることは、ぼくはさほど驚きませんでした。エスパーポケモンである以上、不思議なものが見えるのはよくあることなので。そして、ぼくはあなたに言わなければいけないことがあります」
 ニャスパーがきっと頭をあげ、涙で一杯になった藤の目を、東の茶の目に合わせた。
「ぼくは、はかせのまわりに藤の魚が見えるんです。はかせが喜ぶと魚も喜ぶし、はかせが落ち込むと魚も元気がなくなるんです。それがなんなのか、ぼくは知っています」
 東は言葉に詰まった。喉元になにかがつかえた感じがして嚥下したが、なにも腹には落ちなかった。
「ぼくが見ているこの魚たち、それははかせの表現力です」
「僕の表現力…」
「はかせの持つ、映像を文章で魅せる力、透明な物に色を塗ったり、無機物ににおいをつけたりする力です。ぼくはここに来てから、ずっとその魚を見ていました。でも言えなかった。言えなかった」
「…どうしてだい」
「だって、魚が見えるポケモンだって知ったら、ぼくははかせに嫌われてしまうから。魚なんていないのに、ぼくだけが見えるなんて、気持ちが悪いから。ぼくははかせに嫌われたくないんです」
 ニャスパーは泣いていた。嗚咽を抑えられないほど泣きじゃくって肉球で目頭をおさえていた。それでも涙は次々と零れて、灰色の毛を濡らしていった。
「エスパーポケモンは感情を出しちゃいけないんです。魔力がなくなるって言われてるんです。でもぼくは魔力なんていらない。ニャオニクスになれなくてもいい。はかせと、はかせと笑いたいんです。はかせと泣きたいんです。はかせと同じ気持ちになりたいんです」
「だから、昨日、ぼくの目に魚が見えるって言ってくれたとき、すごく嬉しかったんです。はじめて同じ気持ちになれたから。はかせと同じものが見えてるなんて、想像もしなかった。はかせが言ってくれたから、ぼくも言わなくちゃと思って、泣いて魔力がなくなっても、藤の魚のことは言わなくちゃいけないと思って」
 東はニャスパーを抱き寄せた。あまりにも小さくてもろいこの体に、どれほどの重荷を抱えていたのだろう。腕の中でわんわんと泣くニャスパーを力強く抱きしめながら、もういい、もういいよと震えた声で囁いた。
「はかせ、ぼくを、エスパーポケモンじゃなくなったからって、悪い子だって、外に追い出さないで」
「追い出すものか。ニャスパー、君は天才だ。君は僕の救世主だ。僕の、僕でさえ気づかなかった才能を、君は見つけてくれたんだから。君の魔力がなくなったとしても、それが何になる。僕には君が必要なんだ」
 外の雨はいつの間にかあがっていて、硝子の光が差し込み始めていた。美しいと思った。進化よりも美しく、神秘的で、センチメンタルなものがあったなんて。東はニャスパーの藤の目の中にいる魚が跳ねたのが見えた。

 私ははっと我にかえった。時間は最後に時計を見た時よりもずっと進んでいて、二匹のポケモンの寝息が聞こえるのがわかった。私は今、生まれて初めて進化を題材にした小説を捨てた。それでもこの作品は、今までのどの物よりも美しく輝いて見える。ベルが鳴って、焼き上げていたクッキーが完成したのを知らせてくれた。甘くいい匂いがこちらの書斎までしみ込んでくる。私は席を立ち抜き足でキッチンへ向かおうとして、新しい小説のタイトルと執筆者のサインを書き忘れていたことに気づき、テーブルの万年筆を握った。

さかな
東 利信