ΜΟΚΑ

彩園すず
テーマA:「ラジオ」「上昇気流」「反比例」
編集済み
この作品はR-15指定です




 頭がボーっとして、何も考えられなかった。

 モモカはベッドに横になって白く塗られた天井と、それをさらに白く照らし出す蛍光灯の光を、ここ何日間も見続けていた。壁は天井と同じオフホワイト。壁の1つには大きな窓があり灰色のカーテンが下がっている、その向こうには外から差し入る陽光があるが、窓の外には網目状の鉄格子があるようで、外からも中からも出入りはできない。個室の唯一の出入り口となる頑丈そうな扉には電子鍵が掛けられており、内側からは自由に出入りすることはできない。退屈凌ぎか、個室には小さな本棚も置かれており、そこにはたくさんの本が収納されていた。読みたい本があれば言ってほしいとのことだったが、あいにくだがそんな気分になれない。
 注射針を刺す動作を省略するために、あらかじめ三方活栓付きの留置針が常時腕に刺され、左上方には点滴パックを吊るすためのガードル台が置かれていた。服は滑らかな肌触りで、吸汗性の富んだ薄紅色の甚平型患者衣を着ていた。
 部屋の中を自由に移動しても良いそうだが、投与されている薬の効果なのか常時眠く、意識が朦朧として立ち上がって何かをしようと言う気が微塵も起こらなかった。朝昼晩に病室に配られる食事と、病室に併設されているトイレに立つ他で体を起こすことはない。
 そして、全身の疼痛が未だに続いていた。幾度の手術のたびに麻酔を行っていたが、何度も腸骨に穿刺されて臀部から腰に掛けて中心に鈍い痛みが未だに残る。上体を起こすたびに尻に大きな針を刺されたような痛みがあったことが、わざわざ起き上がることをさらに億劫とさせていた。

 モモカはポケモントレーナーであり、家を持たない旅人だった。
 両親も家も失っていた彼女は、自分のポケモンだけを連れて、町から町へと移動する生活を送っていた。いつかはどこかの町で自分の家を買ってそこで住みたいという願望があったが、気が付けば荷物をまとめて次の町を目指して出発していた。そんなことを続けて早数年、私はポケモンと共に旅を続けるということから逃れられないのだろう、とモモカは思っていた。
 あれは日がもうすぐ落ちかける夕方のことだ、森を抜けて次の町に向かうための草むらの横の道を歩いていた時、何かのポケモンに急に後ろから襲いかかられて何も抵抗をすることもできず、そのまま意識を失ってしまった。そして、気が付いたらこの病室で管に繋がれていた。
 外では常に野生のポケモンからの襲撃は警戒をしていたはずだったが、ずっと歩き通しで疲れていたのかもしれない、運が悪かったがこうして誰かに助けられて入院できたことは幸いだったのだろう。毒タイプのゴルバットに噛まれて、発見が遅れたため、襲われた際の傷口から全身に毒が回り感染症まで引き起こし、かなり危険な状態だったそうだ。ゴルバットやズバットの生息域は主に洞窟だが、木の密集度が高く薄暗い森にも生息することがある。いまさら後悔しても遅いが、旅を続けて長いというのにこんな不注意をするとは、うっかりしていた。

 カードキーをかざした際のピピッという音と共に扉が開かれる。黒い短髪にメガネをかけた、スカイブルーのケーシー白衣の若い青年が配膳用カートワゴンを押して昼食を運んできた。
 モモカは億劫そうに上半身をベッドから起こす。薬漬けでうなされる1日の唯一の楽しみとも言える食事だが、その内容は味気なく、栄養や消化効率を追求した結果、見た目の審美性を捨ててしまったようで、まるですべてのポケモンに食べさせる安物の万能エサのようだった。でも見た目に反して意外とおいしい。
 食べている最中に、トレイと食器の間に2つ折りにした紙が挟まっていることに気が付いた。開いて読んでみると、次のようなことが書かれていた。

  『 あなたと話がしたい 』




 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




 手紙を置いて行ったのは昼食を運んできた先ほどメガネの青年で、名前はミズキというらしい、たまにここに食事を運んで来ていたのでモモカはその顔を覚えていた。最初の何回かは紙の裏に文字を書いての文通でやり取りしていたが、しばらくしてからは普通に話すようになった。
「普通に話していいんだから、別に隠れてコソコソしなくていいんだって」
 と彼は説明した。加えて、彼の上司が取り計らってくれたようで、毎日の朝食の配食を彼に委ねて、朝食と食後の時間は2人きりで話をした。話と言っても取り留めのない話ばかりで、下らない話も多かったが、同世代の男女だけあって共感できることが多々あり大いに盛り上がった。
 お互いに境遇が全く異なる二人であったが、1年しか旅をしてこなかったミズキにとって、10歳で家を出て以来のほとんどを旅に注ぎ込んできたモモカの話は、彼にとって未知の世界であり、大変に魅力的なものであると同時に、衝撃的なものもあった。


 モモカの父親は、彼女がまだ幼い頃に遠い地方でポケモンに食べられて死んだ。彼女の父親はレンジャーの仕事に就いており、普通の人は絶対に足を踏み入れないような山や森も奥地での仕事のため、長い間単身赴任していた。当時の幼かった彼女にとっては写真でしか顔を知らない存在であったために、いざ死んだと聞かされても全く悲しいという感情を持てなかったのだが、母親がずっと泣いていたことは覚えていた。死体はポケモンに食べられてしまったため腐敗が進み、その場で火葬されたので、遺骨と遺品のみが家に送られてきた。
 母親は彼女が学校を卒業して旅に出ている間に、突如山から郷に下りてきた凶暴な大型ポケモンに、家ごと潰されて亡くなった。知らせを聞いてすぐに鳥ポケモンをチャーターして故郷に飛んで戻ったが、すでに母親はこと切れており、彼女はあの時の母親と同じくらい大声で泣いた。
 彼女には兄弟はいなかった。遠い親戚ならばいたが日ごろから連絡を取っておらず、天涯孤独となってしまった。ガレキと化した自宅を片付けて更地に戻した、大型ポケモンが暴れ回って家を破壊されることはよくある話であったので、掛けた住宅保険がほとんど下りず、それと手持ちの金を加えても家を再建させることはできなかった。仮に再建できたところで、彼女が今後その家に住むかどうかは分からないので、すぐに家の土地は売り払い、再び旅路に戻ることになった。

「今思えば、さ…… あのガレキとなった家を見て、ああもう私には留まれる場所なんてないんだって思えてしまったのかもね」
「そうなんだ」
「永住の住処を探して旅をしているって口では言っているけど、どんなに良さそうな街に出会っても、気が付いたら次の町を目指して出発しているんだ」
「かっこいいよ」
「字面だけはね、結局は逃げているだけ」

 モモカが真っ白いシーツのベッドの横に座り、ミズキもその50cmほど離れた横に、隣り合って座る。
 今ここに、彼女がいる。彼女がいつも寝ている滑らかなシーツにそっと触れると、胸の奥がさざめく、ずっと頭のどこかで彼女のことを考えていた。けれど穏やかに話すことができない。
 抱きしめたい。彼女の顔を胸に押しつけて、この両手で髪をくしゃくしゃと崩してやって、そして梳かしてやりたい。
 不意に、上昇気流でフワッと彼女の柔らかくて長い髪の毛が風に流れた気がした。
 一瞬、視線を奪われて、顔を少し赤くして小さく首を振る。部屋の空調がそんな強いわけがない、だから気のせいだ。……こんなことで動揺するのか。我に返って、おいおいと彼は自分に突っ込みをいれる。
 そんな取り繕いがうまく行っていると信じて、知らん顔で軽く微笑んで見せると、彼女もどこか嬉しそうな表情をしているように見えた。



「ここを、こうやって、こうエッジが飛んできたから、こう避けてね」
「うん」
 身振り手振りで野生のサナギラスとの死闘を誇らしげに説明をするモモカの語りに、ミズキは相槌を打ちながら、その話に耳を傾ける。
 ポケモントレーナーとして旅に出るという文化は、あくまで危険なポケモン達が跋扈するこの世界における護身術を身につけるためなので、旅を始めて2年の間はポケモンセンターの利用料が全額控除されるなど優遇されているが、それ以降はお金が掛かってくる。その期間を過ぎても旅を続けるためには何らかの収入を得る手段が必要になってくる。
 モモカは各地を転々としながら町の人からこうしたポケモン退治の依頼のバイトを引き受けて、それを元にやりくりして生活をしていた。
「足場が崩れそうになったところを、そこでなんとか踏みとどまったところで、ハイドロポンプが当たったんだ」
「お見事」
「ありがとう」
 モモカは得意げに笑みを浮かべる。
「サナギラスでもそんなに強いんだね」
「どういうこと?」
「バンギラスならばともかく、進化前のサナギラスにモモカさんがそんなに苦戦するとは思えなくて」
「そこに生まれた時から棲んでいるから相手には地の利というものがあって、でこぼこの岩場を利用されてしまうとどうにも上手く戦えなくて。真っ平で整備されたスタジアムの上だったら別なのだけど」
「へえ」
「もしもバンギラスに進化してしまったら、もう手に負えないからね。四天王レベルならば一応は倒せるだろうけど、仮に倒したとしてもその戦闘時にできる傷跡は、地面は大きく抉れて、木は広範囲になぎ倒され、周りに住んでいるポケモンたちは家を奪われて、生態系は大きく狂う、そうしたポケモン達が山を下りてくるかもしれない……」
 モモカはそこで声のトーンを落として、さらに言葉を続けた。
「本当はこうしてポケモンを痛めつけるようなことはするべきじゃないし、私だってやりたくは無いけど……。ニンゲンはこわいんだ、ニンゲンのたくさんいるところにいくのはイヤなんだ、って思わせないとポケモンが人里に下りてきてしまう。まだ若いサナギラスのうちにしっかりと人間に対する恐怖、いや警戒心というものを与えておく必要があるんだ」
 自分の母親のような悲劇を生み出さないように、ポケモンによる被害を防ぐために、奇しくも自分の父親と同じように、普通の人なら足を踏み入れないような山に入ってポケモンと向き合う仕事をモモカはしていた。


 そのように自分のそばに居られるのはポケモンだけなのだ、とずっと信じてひたすら旅を続けてきたモモカにとって、それとは正反対に旅とはほぼ無縁だったミズキの話は新鮮で興味深いものだった。
 ミズキはポケモンと遊んだり戦わせるのも苦手で、大人しく1人で机に向かって本を読んだり、勉強をしているほうが好きな子どもだった。どうも友達付き合いが下手で、人間でもポケモンでも誰かと接することが苦手だったのだ。10歳で友達と先生に誘われるがまま、トレーナーの旅に出てみたが、これといって楽しいと思うことができず、1年で旅を辞めて家に帰って来てしまった。
 しかし、ポケモン自体は嫌いと言うわけではなく、ポケモンという生き物そのものに興味が湧き、幸い彼は誰よりも勉強はできていたため、好きが高じて研究者への道を志した。高校卒業後は家の経済的な理由で就職を選んだ、だが高卒の枠が一応あるものの、大卒枠が強い研究職での就職はたいへん狭き門だった。自らのコミュニケーション力の不足がたたり、なかなか決まらず、ようやく滑り込めた就職先がこの場所だった。
 しかし、妥協して彼はここに決めたわけではなかった、形はどうであっても自分がやりたかった最先端の研究というものができる場所であって、賃金も就業環境も良い。進んだこの道に後悔はしていなかった。

「あなたはどんな研究をしていたの?」
 モモカにそう問われ、ミズキはちょっと言葉に詰まってから答える。
「ポケモンを賢くするための研究をしていた」
「どういうこと?」
「ポケモントレーナーはポケモンに指示を出し、ポケモンはそれに応じてワザを繰り出す。だけど、受けた指示を理解し、それを瞬時に行動に移すという動作は実は高度な技術で、どんなポケモンにもできることじゃない。ワザを繰り出すまでのラグが大きいとトレーナーは満足に指示を出すことはできない」
「分かる。だからポケモンによって、指示の内容を工夫したり、先を読んだ指示を出すようにしたりするね」
「そう。一般的にポケモンの理解力は人間でいう6歳児レベルだから、幼稚園児でも分かりやすい指示を心がけることになる」
「そうなんだ、どおりで……」
「わかる?」
「よくわかる」
「でも、もしもそれを小学生や中学生のレベルまで引き上げることができるならば、もっと円滑に複雑な指示を送ることができるようになる。やがてポケモン自身が自分の意志と考えで戦っても、トレーナーの指示下と変わりない戦いができるようになるかもしれないな」
「戦うのはやっぱりポケモン自身なのだから、そうなることがベストだね」
 ベッドの上に置かれた彼女の手まで、あと30cmというところまで彼の手は近づいていた。
 彼女だけは何か特別だった。彼女を見ると余裕がなくなる。感情の振り幅が大きくなって苦しい。そうして笑顔一つで浮かれるようになる。
 ふわふわしてやわらかな患者衣越しに肌をさすってみたらどんなに心地よいものか、薄紅色をした衣が作り出している滑らかな身体の曲線に目を沿わせてみると、それだけで嬉しくなってくる。
 ちょっとしたことでどきどきしたり、赤くなったり。困惑したが、笑顔を思い出したらどうでもよくなった。
「あと、ポケモンが賢くなれば、もっと多くの新たなワザを習得できるようになれるはずなんだ」
「そっか、覚えられることが多くなれば、それだけたくさんのワザが使えるようになるのか……」
 手を握りたいとゆっくり這わせていった、その手と手の距離は20cmから先には進めなかった。




 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *




 手術創の痛みがだいぶ和らいできたのか、モモカは自由に動き回れるようになってきた。
 おそらくミズキとの会話を通して、だいぶ彼女の気持ちが和らいでいることも関係しているだろう。
 ラジオアイソトープでラべリングをした体内マーカーの減少率グラフが、通常の新陳代謝で行われる体外排出量を加味しても、重ねた反比例の理想曲線と比較し不可解に低い値を示している。このことから空間を跨いだ物質交換が行われ、体内に高次へのリンクが形成されたと見られた。臨床実験は次の段階に進むことになる。

 室内から病棟用ベッドが取り払われ、代わりに大きなマットと複数枚のタオルケットや掛け毛布が運び込まれた。
 それらと同時にミズキは1匹のポケモン、リーフィアを室内に連れてやってきた。
「わぁ かわいい」
 彼女は甘酸っぱい果実を丸かじりしたかのような、くしゃっとした笑顔を浮かべて、その子をぎゅうぅと抱擁する。
「私の名前はモモカ、キミの名前はなぁに? 好きな食べ物は?」
 面と面を向かい合わせて優しく語り掛けると、きゃうきゃうと鳴き声で応えた。
「うーん、分からないか」
「どうしたの?」
 残念そうな顔をしたモモカは、ゆっくりと、振り向きながら首を傾げて困ったような顔をする。
「もしかしたら、ポケモンと話せるようになっているのかもしれないな、って思って。じゃあ、なんだろうなぁ」
 そして、何かの答えを求めるような瞳をミズキに向ける。
 ミズキの瞳が空を泳ぎ、そしてやがて観念する。
「……ポケモンと話せるようになることはしていない」
「ふうん」
「……いつから気付いていた?」
「ここで目覚めた時から」
「……」
「はじめっから何となく変だって思っていた。前に毒ポケモンのワザを受けて熱を出して病院に入院したことがあったけど、こんな物々しい雰囲気じゃなかったよ。ここの病気や怪我を治すための場所という感じがまるでしない、どちらかというと研究所と言った感じ、だから治療のために私はここにいるんじゃなくて」
「人体実験」
 言葉を遮って、それ以上を言わせないようにした。
「モモカさんは、あの日はゴルバットに咬まれて、倒れたところを偶然助けられたわけじゃない、誰も身寄りがいないことを調べられた上で、拉致されてここに運び込まれたんだ」


 研究もある程度進むと実際の被験者を用いた臨床試験が必要になる。ブローカー経由に外注すれば用意してくれるだろうが、おそらく法外な費用を吹っ掛けられるため、使用する被験体は所員自ら調達することになった。
 森など人目につかない場所に入ったところを、標的に気づかれないように眠らせる、確保完了後は服やカバンなどの持ち物を剥ぎ、それをアーボックやリングマなどの人を食いそうなポケモンの住処の近くに放置する。こうすることで、食べられない部分は吐き出されたが、生体の部分だけはまるごと食べられて消化されたように見せかけることができる。あとは頃合いを見計らい、発見者を装って服とカバンを遺留品として近くの役所に届け出ればいい。
 ポケモンに食われて死ぬことはよくあることなので、役所の受理から何事も無く月日が経過すれば、モモカは死亡したものと見なされて、戸籍から削除される。生きているはずのない存在となり、誰からも咎めを受けることがなくなる。

「本当に、申し訳なかった」
 ミズキは頭を深く下げて謝罪した。
「いいよ、そんなこと、私は大丈夫だよ。分かっていたし」
 しれっとした顔でモモカは言う。
「いや、でも」
「痛みにうなされて呻いていた時に遠い意識の向こう側で、周りでそういう内容の話をしているのが、実は聞こえていたんだ。半信半疑で今こうして話してくれるまでとても信じることができなかったけど、自分の中で覚悟は既にできていたのかもしれない。話してくれてありがとう、こういうのもアレかもしれないけど……エアコン完備の食事付きは悪くなかったし」
「あ、ああ」
「私は、帰るべき家を探してずっとずーっと旅を続けて来た。でもどこにも居られなかった。暗い月夜に旅先の寝袋にくるまるのではなくて、広い部屋に真っ白いふかふかのベッドで眠る日々を、ずっと夢見ていたんだよね」
 はにかんだ表情で語りかけるモモカに、ミズキはつい空気を読まず、見惚れてしまった。

「……で、私はこの子にどうしたらいいの?」
 モモカは、抱いたままだったリーフィアを指して尋ねた。
「あっ、ええと…… スキンシップを多く取って、一緒に寝てやって、仲良くしてもらいたい」
「つまり、パルレすればいいってこと?」
「そうだね、ブラシとかタオルとか、パルレ用品を今持ってくる」
 ミズキは外から道具を持ってこようと、立ち上がったところで、「あっ」と聞こうとしていたことを思い出した。
「ところで、この子の性別って分かる?」
「男の子ね」
「正解。なんで分かった?」
「触った感じがそんな感じ」
 ミズキは「そうか」と一言だけ答えて、臨床試験室から出て行った。



 それから、毎日モモカの部屋には様々なポケモンが預けられた。
 研究所のポケモンだからか、あまり積極的な触れ合いをされていないようで、最初は緊張しているようだったが、モモカが馴れた手つきでブラッシングし、添い寝してあげると、すぐにそれらのポケモンと打ち解けて仲良くなることができた。
 母子家庭でポケモンだけが遊び相手だった幼少期、昔からポケモンとそうして遊ぶことが好きだった。
 毛繕いを終えたばかりのアブソルのふさふさの毛皮に体を沈めると、心地よくて、疲れた心が一気に安らいでいく。やはり自分はこうしてポケモンを触れ合っている時間が幸せなのかもしれないのだとモモカは思っていた。それまではポケモン断ちだった入院生活、いや入院ではないがいままで接することができなかった分だけ、こうした感動もいっそう大きかった。
 支給された毛布などでサークル上に囲いを作り、巣のようにした円の真ん中で、もふもふした毛に顔を埋めながら、暇に任せて本棚に並んでいた少し専門的な本を読みはじめる。モモカは一体この場所でどのようなことをされたのか知りたかったが、説明されたところで今の頭では到底理解できない気がしていた、幸いなことに時間はたくさんありそうなので、今は少しでも知識が欲しかった。しかし同時に、それは知るべきではないとても恐ろしいものではないか?という予感がしていた。
 そういえばあの時に、大丈夫だって言ったけれど、そんなものは嘘だった。本当は怖くて大丈夫なんかじゃない。
 愛の言葉や気休めの言葉など、何も欲しくなんかない。それはきっと絶対に叶わないことだから言えないのだろうが、たとえ嘘でもいいから。
 モモカは彼にただ一言、「ここから出してやる」と言って欲しかった。







 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *








 そして、1週間後。
 その朝もミズキはいつものように部屋の鍵を開けて、朝食を乗せたカートを押して入ってきた。
 モモカは彼の顔を見るなり

 腕を大きく振りかぶって、彼の頬に掌底を叩きつけた。

 ミズキの体は完全にバランスを崩して後ろに突き飛ばされ、うまく受け身を取れないまま壁と地面に叩きつけられた。
「&%$#*+@#$%&!!!!」
 モモカは言語に起こすことができない罵声を浴びせながら、カートの上の朝食をお盆ごと持ち上げて、彼を目掛けて投げつける。
 とっさに腕でガードしたが、痛いものは痛い。
 ミズキはそれらの反応で「ああ、なるほど」今朝何があったかを察して、頭から滴り落ちる味噌汁を手で拭いながら言う。
「……とりあえず、見せてくれ。 あと、回収して、いいかな?」
 部屋の隅では、一匹のマグマラシが怯えながら二人の様子を見ていた。
 モモカはベッドの真ん中に置かれた丸っこい物を彼に押しつけて、部屋から彼を叩き出した。
「二度と来るなっ!」
 バタン、と締められた扉を前にして、彼はどういう表情をすればいいのか分からず、ただ渇いた笑いを浮かべていた。
 ずっと危惧していたが自分でも驚くほど淡々と受け答えていたことに、ミズキ自身が驚いていた。
 ぜんぶ分かっていた。
 こういう朝が来ることは知っていた。

 彼が預かり、腕に抱えているものは、ポケモンのタマゴ。
 マグマラシとモモカの、タマゴだ。





 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *






 ポケモンの生殖方法は、他の生物の生殖法とは一線を画している。その異常性がポケモンをポケモンたらしめている部分であり、いまだに解明されていない生物の神秘である。

 その原理を説明するためには、まずどのようにしてポケモンが質量と体積を無視してモンスターボールに収まることができるかを知らなければならない。ポケモンは特定条件下で自らの肉体と精神を三次元空間から高次元の空間に移動させることができる、その際に元の空間に帰還できるように目印を残す。これを次元錨(じげんびょう/ディメンショナルアンカー)と呼び、一般的にモンスターボールが媒介とされる。さらに三次元空間に残した次元錨は、電子パルスの信号に乗せて移動させることができるため、パソコン通信でのポケモンの転送が可能ということになる。
 ざっくりと説明してしまえば、全てのポケモンは異世界と繋がっており、モンスターボールを用いれば異世界と出入りできる。その出入り口はネットを使って遠くに送ることができる。
 厳密にはモンスターボールが次元錨になるわけではなく、その素材となるぼんぐりの成分によるものであり、実際の物質転送の際にはモンスターボール自体も異空間に移して二段階の転送が行われている。
 このようなポケモンの異空間接続は、次元錨だけに見られる現象ではなく、例えば水ポケモンがワザを使う際に大量の水を放出できるのは、高次元空間に存在する水を一時的に取り寄せているためだとされている。このときに取り寄せた水は、三次元空間で不安定な存在なので早やかに次元還元を引き起こし、時間が経過すると元の空間に戻って消滅してしまう、波乗りを使った時に使われた大量の水が一瞬で蒸発するのはこのためである。このようにポケモンの生態には高次元空間への接続は不可欠である。

 さて、ポケモンの配偶子は高次元空間に置いてあるとされており、種が近縁な雄と雌のポケモン同士が非常にリラックスした状態で長時間接触することで高次元下でリンクして、配偶子接合をする。
 こうして作られた接合体は、まず次元錨として卵錨(らんびょう)を生成して、番のポケモンの傍に呼び出される。これが俗に"ポケモンのタマゴ"と呼ばれている物だが、成分のCa含有率が低く一般的な卵殻とは異なり、構造はモンスターボールそのものである。接合体は卵錨を経由して周囲の生体エネルギーを吸収して育ち、接合体が成熟すると卵錨が砕け、三次元空間に呼び出され孵化を起こす。
 こうした生殖方法は、接触によって生殖行為が成立する『接触生殖』と呼ばれ、交接器や産卵管を必要とせず、ポケモン独自の進化という現象の前後で生じる、体格差や身体構造の差を埋めるために成り立ったとされるが、結果的にこれが近縁種族間交配を可能とし、多様性を生み出す要因になっている。

 ポケモンに人間並の知能を与えるためには、生まれ持っての脳の容量や神経細胞の分裂量および結合力という壁があるため、後天的プロセスではなく交配で生み出すべきだとされていた。有史よりポケモンと人間が交わった記録が残されているように、遺伝的に柔軟なポケモンの接触生殖の許容範囲はヒトにも及んでおり、接合率は極めて稀であるがポケモンとヒトの間で生殖交配が可能であったことは知られていた。
 子どもは雌性親の形態を持って産まれ、雄性親の遺伝子はほとんど発現せず覚えるワザや能力の素質のみに影響を与えるため、研究初期は人間の男性とポケモンのメスでの交配試験が行われていたが、産まれてくる子の知能はどれも通常種と同じだった。

 中枢神経系、すなわち脳と脊髄は全身の諸器官のうち最も遅く成熟を終えるが、最も早期に発生を始める極めて特異な器官系である。例えばヒトにおいては受精によって成立した原胚子から外胚葉,内胚葉に分化した後、胎生3週目に入ると外胚葉と内胚葉の間に中胚葉を形成する、これが脊索突起,体節,側板に分化し、脊索突起が入り込んだ内胚葉部分が脊索,脊索突起の背側に当たる外胚葉部分が神経板に分化し、これから脳及び脊髄のすべてが形成される。4週目には神経管の組織発生が始まる。
 終脳の新皮質まで細胞分裂をさせるためには、神経管の組織発生の段階から始める必要があるため、原胚子の段階ではヒト発生である必要がある、それでいて生まれるのはポケモンである、この矛盾をいかにするかがカギだった。
 ヒトの中枢神経系情報を保持したまま、ポケモンの子に発現させる手法が必要となる。数多くの検討と実験が行われた結果、最終的に人間の体内に高次空間へのリンクを作らせて、卵錨を作らせる案でまとまった。

 つまり、人間の女性にポケモンのタマゴをつくらせることだった。

 まず被験体の骨盤から穿刺採取した造血幹細胞からiPS細胞を生成する、次にメタモンなどの細胞からDNA抽出し、2型制限酵素で生殖と次元接続及びそれに付随する4ヵ所を単離、それぞれのクローニングベクターを作成する。
 これを先ほどのiPS細胞に導入し、数代の培養後、中枢神経系を雌性親より優性独立発現させるクローニングベクターをさらに導入して培養。作成したクローニングiPS細胞を数度に分けて験体に戻して定着を待った。このように人間に卵錨を作り出せるように施術した。
 こうすると高次空間で育つ胚は生体エネルギーの影響を受けて、徐々に雄性親のポケモンの形態へと誘導されるが、中枢神経系は雌性親の情報を色濃く残したまま育つ。



 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



 その日以降、ミズキはモモカの部屋に訪れることは無くなった。
 そして彼女は口を噤み、人間と言葉を交わすことも無くなった。
 他の所員が毎日かわるがわる、いろいろなポケモンが部屋に連れて来た。
 モモカはそれらのポケモンを、日中は優しくブラシで毛づくろいをして話しかけ、夜は横に並んで抱き合って眠り、夜を共にする。
 周りに敵がなく、誰にも見られておらず警戒をする必要のないリラックス状態の両者が、長時間限りなく近付いた場合、不随意に卵錨が手元に生成される。ちょうど朝起きるといつの間にか持っていたと表現される通りの現象が起こる。
 体内から産み出しているわけではなく異空間から呼び出しているため、出産のような痛みはないものの、体内にある何かを用いているためか、それだけ疲れや空腹感は増すようになった。また、異物を合成するためか身体に酷い負担を掛ける行為であり、そうした痛みが常に襲ってきていた。
 ちょうど内臓の端と端をこう、両手で持ってぎゅぎゅぎゅーと雑巾絞りをされるような痛みが、内側から先の尖った熊手でガリガリと引っ掻いて削られるような苦しみが、毎朝起きた時から続く、そんな状態で何かを食べてはすぐに吐き戻すことになるため、朝食は全く口に通らなくなってしまった。
 それでもお昼にはだんだんと苦痛は引いていき、昼食は残さず食べることは出来ていた。その後に毎昼やってくる様々なポケモンに触れて癒やされて、抉られた気力を回復させながら本を読んで過ごすのがモモカの楽しみになっていた。

 ルカリオやコジョンドのような、ふさふさの毛皮を持つポケモンだけでなく、アシレーヌやマリルリのような、じめっとしていて冷たいが、ずっと触れてみるとちゃんと体温があって温かいポケモン。ガバイトやハクリューは、ざらざらの鱗が癖になる感触で新鮮だった。
 タツベイやクチートは人に馴れにくく扱いは難しいが、一度心を許すと全身で委ねて来た。メラルバやヒノヤコマは抱いて寝るにはあまりに熱すぎてダメ、逆にウリムーとユキカブリは冷たすぎてダメだった。
 だんだんと感覚もマヒしてきたのか、ミミッキュとキノガッサはイケると思って寝た結果、どちらも死にかける羽目に遭った。テッシードやヒトツキやメタングを当てがわれた時はさすがに戸惑い、これで本当にポケモンのタマゴが作れると思っているのかと所員の感覚を疑った。

 人道から外れたこのような所業など拒絶できるにも関わらず、律義にモモカは対応し、どのようなポケモンが来ようと同じように接していた。さながらルーチンワークで日々の実務を執行しているかのようだった、それは失望による自棄から行われていただけでなく、彼女自身が目の前のポケモンを卑下して憎むことができなかったからだった。
 研究所としては、貴重な資源が仮に拒むようなことがあれば、拘束や精神操作もやむを得ないと考えていたため。そうした姿勢を取れていたのは彼女にとっての幸いだったのかもしれない。


 モモカは自分が人でありながら、人でない存在と毎晩交わり続ける背徳感が、毒を喰らわば皿までと、その行動を後押しする。
 薄紅色をした患者衣がはだけ、羞恥を帯びていた。共にいたポケモン達は感じ取り、それに応えた。やがて何かを求めあう。
 忘れさせて欲しかった。この恐ろしさを、踏み外してしまった人の道を。
 この白く塗りつぶされた鋼の牢獄に囚われた自分を、
 心だけでも解き放って自由にして欲しかった。





 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *






 1年以上の月日が経過した。

 その日は普段は静かなはずの研究所が、慌ただしくなっていた。
 ミズキは小走りで廊下を駆けて、かつて行き慣れていたあの臨床試験室の扉の前に辿り着く。
 ミズキは自分が卑怯者と言うよりは臆病者だと思っていた、いや臆病だと開き直っていた。
 自分の欲情に任せて接する一方で、相手は被験体であり自分はその従事者で加害者であるという事実に対してどうにもせず、ただ自分の感情のみを相手にぶつけ続けていた。
 固い固い壁を自分から築き、どれだけ彼女のことが好きであっても、被験者であることは覆せないものであって、ましては逃避行などもってのほかだと考えていた。絶対に報われないことだとはなから諦めており、それ故に自分をさらけ出すことを怖がってロクに話すことができない。そんなことになることが分かっていたのなら、最初から近付かなければよかったというのに、とんでもない粗忽者で舞い上がった恋情に浮かされて関係を持とうとしてしまった。
 彼女は彼にたくさんのものを与えてくれたが、臆した彼は与えられるはず立場でありながら何一つしてやることができなかった。
 cm単位で近づこうとも0cmにできなかった距離は、心もまた同じだったのだろう。

 「二度と来るな」と言われたあの件に対して、頭では分かっている、全部わかっていたなどと言いながら、少し経ってから激しい後悔が襲い掛かった。膝を屈して、顔を手で覆い隠し、流れてこない涙の代わりに絶望のみが重くのしかかった。
 上の指示で、担当を外されて別の部署に回されたことは本当に助かったと辞令に感謝をし、今まで抱え込んでいた重い荷から解き放たれると同時に、もう二度と彼女に会うことは無いだろうと思いながら、彼は虚無感の中で1年以上を過ごしてきた。
 それでも、
 今日の朝に下された研究所のモモカに対する処遇に対して、ミズキの足が自然に立ち上がって、かつてのその場所に向かっていったのは、その心は腐っていたわけではなかったからかもしれない。


 カードキーをかざした際のピピッという音と共に扉の鍵が開錠される。
 恐怖心をなんとか押し殺して扉を開くと、そこにはあのモモカの姿があった。
 かつてあった元気が失われ、あのつやつやしていた長い髪は痛み、枝毛も多くなったように見える。だが、やせ細っているわけではなく、全体的に丸みを帯びて肉付きが良くなっている。
 どかどかと部屋に入り込んだ彼は、何も言わずに腕を捕らえ、たまらず彼女を強く抱きしめた。
 モモカは振り解いて、力いっぱい彼を突き飛ばした。
「……やあ、ひさしぶり。 実は例の一件で、別のところに異動になって、ずっと会えなかった」
 醜い蛆虫でも蔑むような目で見下ろす彼女に、彼は地面に座り込んだまま、言葉を絞り出し、ゆっくりとした口調で語りかける。
「会いたかったよ」
「……何しに来たの」
「ごめん、急いでいるから要件を言う、モモカさんの殺処分が決まった」
 モモカの表情が、歪む。
「この研究所はじきにロケット団の手に渡る。その前に、あなたには消えてもらうことになった」


 ポケモンの研究はフィールドワークを主とした実地研究が主体となっている。これは旅に出るという文化があるため、こうした研究には理解を示されやすいからであり、各地の名立たる博士達はこうした実地研究の方式を取っている。だが、日陰で建物に閉じこもり、数式と測定機に格闘する研究にはほとんど金が降ることはなく、研究資金は常に枯渇していた。
 金に困ったここの研究所では、通常では覚えられないワザを遺伝できるようになったポケモンなど、研究所で作成したクローニング個体を闇市場で売って、研究資金を捻出していた。
 悪いことをしているという自覚はあった、だが生活と金のためには背に腹はかえられなかったし、自分たちの研究がどのように使えるのかという知識の挑戦心があった。
 モモカの子ども達はどれも高値ですぐに売れた。"賢いポケモン"という分かりやすさがあったのだろう。それまではラプラスなどの一部のポケモンでのみ確認されていた高い言語認知力を持つため、それまではできなかった複数の単語を繋げた指示も理解できるようになっていた。

 それまでは大赤字だった研究所の経営は、ついに黒字へと転換した。
 だが、それは新たな脅威に目を付けられるきっかけとなってしまった。
 闇市場のブローカーを務め、それまでお世話になってきた、漆黒の組織『ロケット団』が研究所の買収を持ち掛けてきたのだ、いや買収ではなく強引な接収になるだろう。所員達は戸惑った。確かに巨大なロケット団の傘下に入れば自分たちの生活は安泰となり、今後は潤沢な予算で研究ができるようになるだろう、。
 だが、今やっている研究をロケット団に渡すわけにはいかない。仮にモモカを手放して、奴らに渡してしまえば何をされるか分からない、研究者としてのプライドと良心の呵責があった。これだけは奴らに渡してはならないと。
 とは言え、ロケット団の手口はよく知っている。目的のためにあらゆる非情な悪事を執行することを躊躇わない、拒めば力ずくでも我が物にするだろう、彼らから逃れることはできない。
 ならばもう要らない。モモカを用いた研究はだいぶやりつくし、十分な成果を得ることができた。もう必要ないから、処分することにした。数多くの偶然が重なって奇跡的に成功した例だけに捨てるに惜しかったが仕方はなかった。
 都合が悪く必要なくなった資料はすべて焼却し、同様に使用していたコンピュータのハードディスクは電磁波に当てて破壊した。


 初めて立ち入る区画を珍しそうにキョロキョロと辺りを見回して歩くモモカの手を、ミズキはしっかりと握って引っ張っていく。
 やがて、大きな部屋に辿り着く、そこには巨大な転送装置があった。
 ポケモンセンターによく置かれている、ポケモンを遠くに送るための装置、かつてモモカが「装置の中には入ったり、手をつっこんだりしてはいけない」と固く言いつけられていたものだった。異世界に移動しても形を保ち続けるための錨を持つポケモンであれば問題はないが、人間がこの装置に入るとバラバラになって、別次元に散らばって死んでしまう。
 この世界から、消えてなくなる。中に放り込んでスイッチを入れれば、不都合な人間の証拠隠滅をするにはもってこいの装置となる。
(私をこの中に? ……いや)
 何故か迷うことも落ち込むことなく、テキパキと熱心に機械の操作をする彼の姿と、それまで自身に成されていたことを照らし合わせ。
 モモカは、ミズキが今から何をしようかとしているか、感付いた。
「これは上からの指示?」
「僕の独断だ」
「……で、ここに入れって?」
「そうだよ」
「よく、そんなことができるね」
「これしか方法が無かった」
「死ねっ! 馬鹿っ! 最後までこんな物扱いしやがって!」
 モモカはミズキの襟ぐりを両手で掴んで上に締め上げる、ミズキは何も言わず抵抗せず、彼女が降ろしてくれるまでじっと耐えた。
「あんたなんか、大っ嫌い」
「……僕はもう、こんな所を辞める。だからあとで、向こうで、また――」
 どもりながら、はっきりしない声で喋るミズキを一瞥し、モモカは装置の中に入った。
「向こうって、あの世?」
「そうはならないはず」
「はずって何よ」
「初めてだし出来るかどうか断言できない。とにかくここから出してやるから、あとはこちらで何とか引き出す」
「……そう、じゃあ任せた」
 プイっと顔を背けて、モモカは呟く。
「あなたとはこんな形じゃなくて、もっと違う出会い方ができていれば、もしかしたら私は好きになれていたかもしれないね」
「モモカさん」
「……早くボタンを押して、急いでいるのでしょう?」
 転送装置のガラス戸が閉められて、準備完了する。
 ミズキは転送プログラムのSTARTボタンをクリックすると、装置は大きな唸りを上げて動き出した。
「バイバイ」
 光に包まれながら、彼女の体が閃光に溶けて消えていく。
 手を振る彼女は笑っていたように見えた。







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 近年、ポケモンの知能が急激に向上しているという指摘がよく見かけられます。

 例えば、20年前においてねずみポケモンのコラッタが成長により覚えるワザの数は6つほどだったとされていますが、現在では13個と2倍以上に増えています。
 また、50年前のポケモンの扱い方に関する文献を読むと、人間の言葉がほとんど通じない野蛮な生物とされ、指示も単語でしか認識できなかったそうですが。現在では複数の単語を交えた文章指示を認識できるようになっています。「よけろ」の一言指示から「右に よけて 攻撃しろ」まで著しい進歩と言えるでしょう。
 こうした能力は教育のよってなされるものではなく、生まれ持っての素質が大きく関係しているとされます。ポケモントレーナーはより強いポケモンを求めて、優秀なポケモン同士を掛け合わせブリーディングを行いたくさんの子を産ませると、一番優秀な個体を残して、それ以外は野に放ちます。
 逃がす際にはそのポケモンの元々の生息域に、一定の決められた個体数を野生に帰すよう細かく取り決めがされているため、一見すると生態系への影響は与えないように思われますが。そうして野に放たれたポケモンが野生種と交雑した結果、意図的なブリーディングを行わない限り覚えることのない遺伝ワザを覚えたポケモンが、近年は数多く野生で出現するようになっております。それと同様に人為的なブリーディングによって産まれた高い知能を持つポケモンの血が、野生定着してしまったのでしょう。
 なぜそのようなポケモンが産まれたのか?
 大きな転換点を1つ挙げるならば、研究所火災を偶然逃れて残されていた採血管や汎用容器のラベルに、手書きで書かれた謎の4文字の英字『MOCA』の名称に辿り着きます。その詳細は不明ですが、おそらくは『Monsters Ontogenic Celltrans Activator(携帯獣発生時における翻訳因子)』の略称で、任意の能力を遺伝させるように操作したポケモンのようです。
 MOCA個体はロケット団の手によって闇市場に流れ、RTS(ローカルトレードステーション)で高値の取引が行われていました。トレーナーたちはより強いポケモンを求めてこの改造産ポケモンに手を出し、さらにそこから殖やしたポケモンをRTSに流すことで、急激にその血は世界各国に広がって行きました。
 より多くのワザを覚えられ、より複雑な指示も理解できるMOCA個体はポケモントレーナー達の悲願でありました。

 しかし、このままポケモンの知能が向上し、人間と同等―― いいえ、人間以上の知能を得た時に、我々人間はどうするのでしょうか?
 人間がポケモンを従わせているのは、ポケモンは知能が低く愚かであり、賢き人間が導く必要があるからだと、古くから言われておりました。力を持ってもそれを上手に扱える知能を持たない、だからトレーナーが指示を送るのだとされております。
 フーディンやメタグロスなどは高い知能を持つとされていますが、数千桁の計算を一瞬で行えるコンピュータのように演算能力が高いだけであり、人間のように自分と相手の心を理解してその関係性を思慮することはできないので、人間の優位性は失われてません。
 しかしポケモンが本当に人間以上の知能を持ってしまうならば、いままで人間がポケモンに対して唯一持っていた優位性というものが失われてしまいます。
 ポケモンに人間と同等の権利を与えるべきだと、幾度となく保護団体によって主張がされてきましたが、それは机上の議論であったから安心して話すことができました。ですが現実に立場が逆転しようとするならば、我々人間は正気を保ちこの問題に向かい合うことができるでしょうか? 人間は自ら理解できる範疇での出来事ならば安心しますが、理解できない存在に対して不安がり、激しい拒絶と嫉妬をして忌み嫌うようになります。
 ポケモンの人間化が進むことで、それを妬んだ人間達はトレーナーとポケモンのmaster-slave関係を保持するために弾圧,暴行,虐待が行われることが予想されます。

 余談ですが。
 MOCA個体の生産は1年半足らずで終了しました、これはRTSに2世,3世が流れたことで希少性が失われたためや、流行りが廃れて需要が減ったためとされています。
 そのMOCAの研究成果はその後ロケット団が推し進めた、遺伝子操作を用いて最強のポケモンを作り出す『Μ2計画』に引き継がれたとされています。
 その後に生み出されたポケモン『ミュウ・ツー』の暴走事故、およびロケット団解散に伴う内部文書開示によって、初めてMOCA研究の存在が明るみになりましたが、ミュウ・ツー暴走時に研究所が全焼したため、ほとんどの資料が焼失しております。
 近年の研究で、数体のMOCA個体を遺伝子解析でたどると、同一の母を元にしていることが判明し、MOCAとは1体のポケモンだったのではと言われております。
 すると、1体のみだと思われていたΜ2計画でのミュウ・ツーの試験体が何体か生存していた事例と同様に、MOCAは現在もどこかで生きているのかもしれません。